良寛と遊ぶ-2001/6/16-

 

陶芸チャリティ展示会を終えて-愛語-いただきます-

 

4月14日から30日まで、陶芸チャリティ展示会をDENの店内で行いました。まだ作品や要領をご覧になっていない方は是非ごらんください。

↓クリックすると出品作品のリストに飛びます。

今は6月16日。今日まで一ヶ月半。チャリティのことを書こうと思っていて、なかなか書けないでいました。考えがまとまらなかったのです。前回もオフ会のことについても、なかなか書けませんでした。ものごとは、しばらく時間を経過しないとはっきりわからないことが大変多いです。恋愛や結婚。就職や転職など人生の転機で、良かったと思ったことが、実は悪かったり、こりゃまいった!なんてことが、後になって良い結果を生んだりすることがよくあります。

 今回のチャリティではかなり良い経験をしました。店長である妻は、店に入ってくるお客様ひとりひとりに(同時開催の企画展のことより先に)熱心にチャリティ展示会の説明をしていた。にもかかわらず、「チャリティでこんな安い価格なのに、こちらの常設品はなぜこんなに高いのですか」という質問を何回もお受けしました。残念なことですが、お客様は作品を前にして、営業目的のものとチャリティの作品を頭の中でうまく分けて考えることができなかったようです。具体的には、「つくり手が無償で提供してくださったものです」と強調してお知らせしているのに、その作品の欠点と価格しか見てないお客様もかなりいらっしゃいました。作り手の気持ちを見ようとする方が想像より少なかったのが残念でした。うまい下手もたしかに見てもよいのですが、作り手の思いや作品から発せられる願いを見てくれないのは悲しいことです。

こういうことは、万事想像力に由来しているような気がします。たしかにお客様にも、想像力をとざしている方がいらしたのですが、お客様の勘違いを招くような私共の計画にも想像力の貧困があったのかもしれません。

想像力の貧困は、心をからからに乾かしてしまいます。逆に想像力は大きな原動力となって世界全体を変えていくものです。

むかしある高名なCMクリエイターが、想像力とは知識の量に比例すると書いてるのを読んで、なるほど、そうかもしれんと思い、私はクリエイターには向いていない、と思ったことがあります。でも、最近は違った考え方をしています。知識量は大きなうつわにいっぱいに張られた水のようなもので、使わないと知らないうちに、ひからびてしまいます。けれど、こころざしを持って、ちょっとうつわを傾けただけで水は勢いよく流れ出すのです。そのうつわを傾けるこころざしや行為こそがクリエイティブであって、水を蓄えることはさほど重要でないような気がしてきました。水を蓄えることに執着しすぎると、物欲や個人の経済力に縛られたたりしてしまいます。

我が師 良寛は闇雲に“水をいっぱいに蓄える”ようなことはしませんでした。修業としての托鉢でも、その日に食べるのが十分であれば、余分なものは逆に人に施したようです。もちろん良寛は膨大な知識を持っていましたが、知識に貪欲であるよりも、むしろ好んだ経文や書物を繰り返し涙を流しながら読んだようです。

チャリティ=Charityは文字どおり、Christian love(=キリスト教的慈愛)から来た言葉なのでしょうが、良寛には、生き方の柱に「愛語」という言葉がありました。「愛語」は道元の「正法眼蔵」にある菩薩の眼目のひとつで、良寛はこれを暗記し座右の銘にしていたようです。

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愛語といふは、衆生をみるに、まづ慈愛の心をおこし、顧愛の言語をほどこすなり。およそ暴悪の言語なきなり。世俗には安否をとふ礼儀あり、仏道には珍重の言葉あり、不審の孝行あり。衆生を慈念すること、なほ赤子のおもひをたくはへて、言語するは愛語なり。徳あるはほむべし、徳なきはあはれむべし。愛語をこのむよりは、やうやく愛語を増長するなり。しかあれば、ひごろしられず、みへざる愛語も現前するなり。現在の身命の存するあひだ、このんで愛語すべし。世々生々(せぜしょうじょう)にも不退転ならん。怨敵を降伏し、君子を和睦ならしむること、愛語を本とするなり。むかひて愛語をきくは、面をよろこばしめ、こころをたのしくす。むかはずして愛語をきくは、肝に銘じ魂に銘ず。しるべし、愛語は愛心よりおこる。愛心は慈心を種子とせり。愛語より廻天の力あることを学すべきなり。ただ能(わざ)を賞するのみにあらず。

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チャリティでも、愛語でもいいのですが、愛をもって人に捧げることは、いわゆる「慈善」という言葉が持ってしまった特殊性と相反して、日々の生活のなかで“人に優しく生きる”くらいの自然なことなのでしょう。

そして、たとえ与えるのが「物」であったとしても、それに込められた思い=「言葉」(=愛語)を与えるのが目的であり、「物」は本質の表層でしかないことを知らされます。そういう観点からすれば、うつわは「物」であり本質ではありません。では、そこに盛られる料理や供物が本質かといえば、そうでもありません。捧げる気持ち=言葉=行動に本質があると思うのです。また料理を惹き立たせるうつわを選ぶ心も、同じ本質から発しています。料理が食卓に出てきたとき、食材を作った人の思い、うつわを作った人の思い、料理作った人の思いなどなどが、受け手の言葉となって具現されるのを待っています。

そう「いただきます」と言う言葉。

この言葉は「愛語」が鏡に映った姿なのでしょう。

 さて、チャリティの方法を企画計画することは、
愛を盛り付けるための「うつわ選び」です。
これもまた、想像力の問題となります。良いうつわを選べたかどうか、はなはだ疑問ではありますが、始めての試みとして、気持ちだけは人一倍込めたつもりでいます。今後も「うつわ選び」のセンスを磨く為、うつわ屋として日々精進していきたいものです。なんて言っても、良寛様のセンスに到達するにはずっとずっと長い道のり!さあ、また歩きだすか〜!
最近この「良寛と遊ぶ」は暗すぎという指摘を受けた。なるほどそうやもしれん。反省し次回は弾けます!!!

 

☆チャリティのお礼の言葉として、宮沢賢治の詩「永訣の朝」を紹介しています。こちらも是非御覧下さい

↑良寛の卓越したセンスの証明。
飾り気がなく、自然で大胆。

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