今朝、夢を見た。 久々になんか、ボリュームのある夢だった。 私は、小学生。 紗帆(9才=長女)蒔人(7才=長男)くらいの歳だ。 断がい絶壁の激流に聳え立つ 塔のようなゴツゴツした岩に登ろうとしてる。 体が軽々として跳ねるように登っていく。 別の意識で、現在の老いた体を嘆いている。 少年の私は、頂上で大自然をひとりじめにして 感動してる。 帰りは少し、危うい場面もあった。が、無事安心な 所まで来ると、警察官に保護された。 警察官は私の無謀を非難しながらも、 少しも動揺していない私を見て、驚愕している。 また、現在の意識が、老いて小心になった自分を 悲しく思ってる。 警察官といっしょに自宅兼工場に着くと、 職人が何人も汗だくで、働いていた。 (事実、小さい頃、自宅に、住み込み労働者が何人か 同居していた。) 飯になって、みんな集まると、一番古株の職人に 私は尋ねた。 『私は小学生か?』 『そりゃ、いわちゃん(そう呼ばれていた)小学生にきまってるよ』 『そうか、でも変だな、おれ、中学生や高校生の記憶もあるよ』 『そりゃ、いわちゃん。前世の記憶に違いないよ!』 その職人の言葉が、少年の私には啓示のように響いた。
前世の記憶?未来の記憶なのに? 私が、その意味について悩んでるうちに、目が覚めた。
起きてからもずっと、その意味について考えた。 昼ごろになってようやく、その意味を自分なりに 納得できる図式を見いだした。
少年の私にとって未来の記憶が、前世の記憶であるためには 時間がめぐりめぐって、ドーナッツのように閉じていなければいけない。 そうなれば、未来の記憶は、ぐるっとまわって前世の記憶になる。 たぶん、輪廻とは、そういう風にめぐりめぐるのだろう。 あるいは、過去の自分と思っている少年の時の自分は、もしかしたら 来世の自分なのかも知れない。それなら、中学生や高校生の記憶は ほんとうに、前世の(今の)記憶で正しいことになる。 ただ、来世の自分が、自分の少年時代と見間違えるほど近似している ということは、やっぱり大きな輪廻を思わずにはいられない。 どちらでも、同じことなのだ。魂は何度も生まれ変わって、もとの 自分にまた戻っていくような円環をつくっている。 ただ、そのまた戻ってきた時、前とは少し違うズレがある。 それが、成長、あるいは進化、あるいは魂のレベルチェンジと言える のではないだろうか。円環はずれて螺旋になる。 その螺旋状は、非常にミクロでみれば、直線。 私達が見ている日常的な時間の流れ。時間は朝から夜に向かって一直線に進む。 もどりもしない。しかし、自分自身の人生から遠ざかって もう少しマクロに見ると、円環が見える。時代が繰り返すように、自分自身も 繰り返し同じ自分に戻ってきているのを感じる。 そしてさらに、もう少しマクロに見れば その円環は、少しづつズレて、ある方向にむかっている螺旋であることに 気付くのだろう。そして、もっともっとマクロに見れば、 波である(=螺旋である)光が一本の線に見えるように、 その螺旋も一定の方向に直進する矢のように見えることだろう。 その矢はどこに飛んでいくのだろう! それは、さらに大きな螺旋にからみとられて 永遠に連鎖しているのだろうか。ともすれ、 私たちは、ものごとを簡略して把握するために、 いつも直線的に思考している。時に大きな円の外に立って まあるい思考を育てていきたいものである。 それが、今朝の夢のひとつのメッセージだと思う。
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野球のデータブックを見ている長女紗帆。 じゃじゃ馬という言葉が彼女に合う。 彼女は、登れそうな木を見つけると おきまりのように、すぐ登る。 日常的に時間は直線。 もっとマクロだと円環。 さらにマクロだと螺旋。 さらにマクロだと直線。
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さて、 良寛が私にくれたメッセージのなかにも『まるいもの』があります。 それは、みんな良寛の大好きなもの。 大事にいつも身に付けていたもの。 毬。 月。 鉢の子(托鉢のための鉢)。
毬- 私は中学から大学までバスケットボールに夢中でした。
月- それは母。父の光りを浴びてしずかに光っていました。
鉢の子- うつわが好きで、陶器屋をはじめた。まるい硬貨は多少たまりますが、
この『まるいもの』たちが、私の意識の根幹にあるのを感じます。 この文章を読んでるあなた、どんな形が好きですか。 100人中、95人はマルと答えると私は思います。あとの5人はヒネクレ者です。 純粋に自然体になって生きれば、マルになると思うのです。
振りかえって、再び今朝の夢をたどってみる。 そそり立った塔のような岩は、 マルの対極にあるものなのでしょう。 自然に反して無理している現実生活の象徴に違いありません。 自己顕示欲の塔なのでしょう。 安全な自宅は、安らかで自然な居場所。マルに象徴されるもの。 お膳につくと、母がまあるい飯碗にニコニコしながら ホクホクのごはんをよそってくれる。 うちには何人も職人が同居してたから、 いくつもまあるい飯碗がお膳に列ぶのです。 そしてその前に丸いみんなの笑顔も列ぶのです。 わいわいガヤガヤ。楽しい、楽しい。 ああ、それも夢のまた夢。でも、私が帰るところといえば、 そこしかないのです。 あの時のあの場所=小学生で、我が家、飯どき、母がいて、父がいて、 兄がいて、祖母もいて、職人もいた。 今、祖母が死に、父が死に、母が死に、職人も何人も辞めた。 残る職人も十分歳とってみんな持病に苦しんでる。 兄は健在で、共に仕事に励んでる。 いつも無理してる兄。 兄だけは体をこわさないでほしい。 もうすこし まあるく生きてくれたらなあ。 |
手まり上人と言われた良寛は、
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