良寛と遊ぶ

8/15日 お盆休み

妻の実家の千葉の成田から 
仏師鈴木鳳峯の工房のある那須にむかって車を走らせていた。
お盆休みのまっただ中、相当の混雑が予想されたので、極力高速を使わずに行った。とても晴れたいい日で気分のよいドライブを楽しんだ。妻におセイジのひとつも言ったかもしれない。
いい出会いの予感がある。

混雑なしで気持ちよく那須に到着。
迎えにきてくれた鈴木鳳峯さんの風体は、思った通りの仏師だった。

鈴木鳳峯さんは仏師で彫刻家で陶芸家である。
ひとつ予想に反したのは、結構雄弁であったこと。
仏師は寡黙なものと決めつけていたから。

「私達の作品は、数百年残るかもしれない。だからいいかげんなものは、決して作れない。そうしたら、数百年も恥を曝すことになるのだから・・・」

と言う言葉が忘すれられない。

まず、工房に案内されて彫刻の作品を見せてもらった。
優しさと鋭さの二面性が感じられる気品ある作品たち。
一見すると、その作品はバランスが少し悪いようにも見える。
しかし、その重心のずれに、エネルギーの流れを感じる。
人に流れる「気」のようなものが、木彫のなかに流れてる。

また鳳峯さんは数年前から工房に窯(不動窯)を築いて陶芸活動にも熱心である。美人の奥さんがろくろをひき、鳳峯さんはてびねりをやる。それを自前の灯油窯と穴窯で焼く。
花器や大物は、彫刻と似た緊張感を感じるが、食器類は、稚拙と言われるすれすれのところで食器に命を与えている。
そこに作者の創造的冒険があるのを気付かない人もいるかもしれない。
そういう人は、乞食坊主の良寛のなりを見て良寛から溢れ出てたであろう正気を感じない人だろう。
良寛は仏像こそ彫らなかったけど、書と歌をよくした。
晩年はかなりそれが評判になって書と歌を欲する
ばかりで、良寛の心を見ない輩もいたようだ。
それを嘆いたのが右の詩だ。自分自身を嘆いているのだ。

ものを見て、心を見ない人もいる。
そんな時も、人を嘆かず己を嘆くべし 

良寛はそういう人だった。
鳳峯さんも恐らくそんな人だ。

仏師鈴木鳳峯は、一生木を彫り続けるだろう。
一体の仏像を何年もかけて彫るのだ。

陶芸家鈴木鳳峯は、一生うつわを焼き続けるだろう。
なんと鳳峯さんは一年に10回以上も薪窯をたくのだ。

うつわは、すぐ人の手に渡り、愛されて使われるだろう。
逆に、ある木彫作品はこの工房にずっと存在するかもしれない。
しかしそれは数百年後にも変わらず輝いていることだろう。
この両極端の創造物はすべて、人間鈴木鳳峯にとって、
日々の修行の残骸にすぎないのかも知れない。
良寛の書や歌のように。

帰路はユーターンラッシュに巻き込まれ相当疲労を溜め込んだ
が、妻が途中で運転を変わってくれた。
疲れのせいか、運転の仕方で口喧嘩になる。
妻にだけにはつまらない文句が言える。
口喧嘩もたまにはいいだろう。怒ると恐い観音様!おつかれさま!

 

 

 

 

 


良寛書凧文字

 

 

 

 

 

 


鈴木鳳峯作 陶仏

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