手塚治虫のアッサジと月の兎 焼き物屋の旦那
♪私の大事な旦那さま〜♪
なんて歌があり、旦那とは日本ではだいたい亭主をさしますが、実はインドのサンスクリット語の『ダーナ』の音写。中国経由で“旦那”は日本に入ってきたことばでしょうが 意味はだいぶ変わってしまったようです。
本来は『布施する人』を意味していました。布施とは仏教では最大限に大事なことのひとつで、悟りへの道であります。もとより不自由なく、才能もあり、世俗と縁を切って孤高に生きれば、人はあるレベルの悟りに到達できるようです。でも、そのひとりっきりの悟りは、本来の悟りとはレベルがちがうというのが『布施』の教えです。自分一人で涅槃に行くのではなく、一人でも多くの衆生を救って共に涅槃へと行こう!っていうのが大乗的な仏教の教えです。そのために、物を施したり、智恵や慈悲を施したりするのが、いわゆる『布施』で、それを日々行う人を“旦那”と言ったのです。
さて、最近十数年ぶりに手塚治虫の劇画『ブッダ』を読みました。
それは、ちょうどブッダが悟りをひらく巻です。
その巻にアッサジという子供(子供に見えるだけかも)がでてきます。彼は失いかけた命をシッダルタ(釈迦)に助けられます。それを契機に彼は、未来のことがわかるようになります。でもその能力のおかげで、幸福になる人はあまりいませんでした。アッサジ自身の寿命さえも知ってしまいます。自分で予言した通りの死すべき日、アッサジの死の直前が下に掲載したページです。次のページでアッサジは親オオカミに食べられてしまいます。それを見てシッダルタは、号泣します。シッダルダはそれから狂ったような苦行の後に、菩提樹の下にたどりついて、ついに悟りをひらくのです。
これは手塚治虫のオリジナルなストーリーです。仏教の説話のなかに、こういうものがあるのかも知れませんが、いわゆる歴史的な事実ではありません。仏教の経典では、アッサジ(阿説示)は釈迦の初めての弟子の一人です。つまり悟りをひらいたのちに、弟子になった者です。それならば史実に反して、手塚治虫は何故アッサジをこのようなかたちで死なせたのでしょう。その答えが、先に書きました『布施』のおしえなのだと思います。日本が生んだマンガの天才手塚治虫が、悟りに到る道のりで、もっとも強調したかったのが、このアッサジの“布施の心”だったのです。自分の命をも捧げて施すことに、究極の布施を現出させたのです。
この手塚治虫のアッサジのテーマと同じような歌があります。
これは我が師良寛が、とてもとても好きだった歌です。
良寛は、月を見ながらこの歌を歌い、いつも涙したそうです。
いそのかみ ふりにし御代に
あるといふ 猿と兔と狐とが
友を結びて あしたには
野山にあそび 夕べには
林にかへり かくしつゝ
年のへぬれば ひさかたの
天の帝の ききまして
それがまことを 知らんとて
翁となりて
そがもとに
よろぼひ行きて 申すらく
いましたぐひを ことにして
同じ心に 遊ぶてふ
まこと聞きしが ごとあらば
翁が飢を 救へとて
杖を投じて いこひしに
猿はうしろの 林より
木の実ひろひて 来りたり
狐は前の 川原より
魚をくはへて あたへたり
兔はあたりに 飛びとべど
何もものせで ありければ
兔は心 異なりと
罵りければ はかなしや
兔はかりて 申すらく
猿は柴を 刈りて来よ
狐はこれを 焚きてたべ
いふが如くに なしければ
烟の中に 身を投げて
知らぬ翁に あたへけり
翁はこれを 見るよりも
心もしぬに ひさかたの
天をあふぎて うち泣きて
土にたふりて ややありて
胸うちたたき 申すらく
いまし三人の 友だちは
いづれ劣ると なけれども
兔はことに やさしとて
元のすがたに 身をなして
からを抱へて ひさかたの
月の宮にぞ はふりける
今の世までも 語りつぎ
月の兔と いふことは
これがもとにて ありけりと
聞くわれさへも 白たへの
衣の袖は とほりて濡れる
反歌
あたら身を 翁に贄と なしにけり
今のうつつに 聞くが羨しさ
秋の夜の月の光を 見るごとに
心もしぬに いにしへおもほゆ
ますかがみ 研ぎし心は 語りつぎ
いひつぎしのべ よろず代までも
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ここに手塚治虫のアッサジと同じように、身をなげうって施そうとする毛な気な兎がおります。
手塚治虫のアッサジの投身は、兎の投身に呼応して、
シッダルタの号泣と狂乱は、翁のそれに対応し
シッダルタの悟りは、この歌の“月”に対応しているように思います。
月は、この『良寛と遊ぶ』の別の章でも述べたように、『心月輪』というがごとくに、悟りの清く澄んだ心の姿を、古くから象徴してきたものです。
この二つのストーリーで言わんとしているのは、布施と悟りにほかならないように思います。この切っても切れない二つの事象の関係を、もっとも愚直に言えば、
“命をも捨てて施すことで、‘奪われる’のではなく、逆に最大限の賜り(悟り)を得る”というようなになるのではないでしょうか。しかもその最大限の賜りとは、己自身がもらい受けるのではなく、生きとし生けるものすべてが、共有の財産として賜るものだということなのでしょう。
なんか、説教くさくなりましたので、仏教オタクとしての発言は置いときまして、陶器屋としての発想で、一言、二言、三言、四言…。
蟻が鯛なら芋虫しゃ鯨って江戸の付け足し言葉よろしく、
悟りが『月』なら、布施たぁー『土』だろ!
って、ぜんぜん洒落になってませんが、陶器屋としては言いたい訳です。考えてもみて下さい。『土』ほど自己犠牲的に我々に恵みをもたらしてくれるものはないのです。花になり、色になり、木になり、甘味になり、実になり、肉になり、石になり、山になり、寝床にもなりうるのです。すべてが『土』の施しです。そしてその施しのほとんどは、すぐにまた『土』へと戻っていくものです。草木や動物が、死んで腐って土にもどるようにです。でも、中には土から産まれてきたのに、なかなか『土』に戻ろうとしないものがあります。それが焼き物です。
先日、銀座のINAXギャリーで行われた『秘土巡礼』と題された展示企画がありました。
すばらしい展示会でしたが、興味のない人には、ただのツチクレのヨセアツメにしか見えなかったかも知れません。その企画の中で中心的役割を担っていた焼き物研究家の芳村俊一さんは、展示会場で放映されていたビデオで、焼き物を『エントロピー』という物理学用語を使って説明していた。つまり、焼き物はエントロピー(無秩序性)が減少した状態だと表現していました。一度高温で焼かれた土は、焼き物としての形態を長く保持しようとするわけです。我々生物も生きていく限りにおいて、エントロピーの減少した状態を保つように努力しますが、やがて病になり死に到ります。しかし、焼き物に一度なった『土』は、もとの土には簡単には戻りません。そういうことで、おそらく芳村氏が言いたかったことは、“焼き物がそれだけ、土から特別に『永遠性』を与えられたたものである”という事でしょう。
それでは、土からの施しものである焼き物は、土へと帰らずに、いったいどこへ施しの連鎖が受け継がれていくのでしょう。それはまあ極論と言われようが、あえて言いますが、
それは、『人間の心』です。あ〜ぁこんなに長い文の結論にしては、なんと陳腐なものだとお嘆きかもしれませんが、そうでもないのです。その証拠に、大昔に焼かれた陶器のカケラこそが、真摯に陶芸に正対している者にとっての、陶芸の行くべき指針になっていると思うのです。
http://www.yakimono.net/kotohji/tokushu/mino-tohen01.htm
http://www.yakimono.net/kotohji/tokushu/tohen01.htm
などは、とても良き読み物です。それは、陶片に魅せられたものたちの焼き物への讃歌とも言えるでしょう。焼き物には、本来の形を崩してもなお、土くれとはならず、陶片として生きて何百年経た後にも我々の心を捕らえて放さないエネルギーがあるのです。そして陶芸界においても、その一個の陶片が、新しい創作の意欲となっていることは、まぎれも無い事実なのです。縄文の火焔土器のカケラなどは、どんなに多くの芸術家の発想の原型となっていることでしょう。
さぁって、この長い書き汚しも佳境となってまいりました。
そうです。では私達に何ができるかということです。
土からいただいた焼き物という永遠の賜わり物を心に戴き、果たして我々焼き物に魅せられた者たちのできることは何ぞ!誰にどうやって施すべきか!
これまた陳腐で申し訳ないのであるが、
焼き物の魅力を伝えること。できるだけ多くのひとに。
それが私の『布施』。
月は私の手の届かない
はるか天空に浮かんでいるが、
土はすぐ私の足下にあり、
私の愛する陶器はいまここに、
私の手の中にあるのです。
だから…
あぁ“焼き物屋の旦那”って呼ばれたい! 精進!精進!