桃李言わざれども下自ずから蹊を成す
有名な故事成語で、私も好きな言葉です。。
桃や李(スモモ)は口に出して人を招いたりしないが、
その樹の下には、そこに集まる人々によって自然と小道が出来る。
つまり、徳のある人には、自然と人が集まってくるという意味です。
今2007年が暮れようとしています。
温暖化のせいかまだまだ厳しい寒さを感じませんが、
もうじき長い冬へと突入することでしょう。
そんな肌寒い日に、数ヶ月前
蛍舞う初夏に訪ねた田村浜男さんご夫婦を思い出して
ほんわか暖かい気分になったりしている。
この12月の展示会で、田村浜男さんの作品をたくさん紹介するので、
田村さんからまた味わい深い作品が届いたからだ。
田村さん作品をまじまじ見つめると、
あの瑞浪の山並と共に、
田村さんの住む瀟洒な家を思い出してしまう。
おそらくは、同じ思いで田村家を訪問する人が大勢いる。 田村家には
下自ずから蹊を成す のだ。
この意味を言うときに決まって
“徳のある人に人が集まる”って言う。
しかし
“徳”って言葉は、やや堅い言い方だと思っている。
“徳”っていうと、禁欲的なニュアンスを私などは感じるから。
人間的な魅力っていうのは、もっとおおらかなものに感じる。
むしろ大人の思慮深さよりも、子供っぽい無邪気さに。
ここは、桃や李だけに、
そのまま“香り”って言った方がぴったりでしょう。
人は、人の香りに誘われて集う。
これがしっくりいきます。
さて
恥ずかしながら最近知ったのですが、
わが師良寛の座右の銘もまた
“香り”という語がキーになってます。
一生成香 (一生 香りを成せ)
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玄関にて奥様と
工房の二階 展示室にて
みごとな抹茶碗に願望をおさえる
鳥たちの水滴
筆舌しがたい壺、壺、壺
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これが良寛先生の座右の銘と言われているそうです。
まさに桃や李のように香りたつ良寛が想像されます。
坊さんの良寛とは同じ香りではないにしても、
田村さんの人と家族と家には
やはり“いい香り”を感じます。
五感のなかでもっとも奥ゆかしい嗅覚は、
好ましい香りに出会ったとき、
本来の感覚を超えて、視覚や味覚や聴覚を刺激するものです。
そういう全五感的“香り”を感じるわけです。
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南蛮焼きは、
粉引以上に香り立つ存在感がある |
逆光にたつ粉引は、また格別。光に濃淡によって趣を変える器物たち
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今になって思えば、
象徴的だなぁて思うのが、
訪問の際ご馳走してくださったほう葉寿司です。
田村さん自身が、自宅からほど近くの
ほう葉の樹からとって来るのです。
そうして、奥さんが作った寿司を、お二人で包みこむのです。
ほのかな酢の味と、幽かなほう葉の香り。
それはほんとうに絶妙なバランス。
それにとてもタイムリー。
初夏にふさわしい味と香りと美しさ。
田村さんの家にあるものは、それぞれに個性的のような気もしますが、
いわく言い難きモノによって、共に繋がっている。 |
使ってなんぼです焼き物は。
小動物への愛は焼き物への愛
自家製のジュースとか
愛すべき造形。コイツと暮らしたい。
愛すべき造形 コイツを忘れない
愛すべき造形 コイツ コイツ ・・・ |
田村さん自身が作る木製の調度品にしても、
熟成中の瓶詰でさえも、好みの骨董にしても、
もちろん家のなかいたるところで息づく焼き物にしても、
同じ波動を持っているように感じる。
それは、光とも言いがたく、
音とも言いがたい。
やっぱり“香り”か。
非常に幽かな同じ“いい香り”を共有している。
ほう葉寿司の、
竹の子や椎茸などそれぞれの具や
シャリの一粒づつが、
同じほう葉の幽かな香りを共有しているのように!
香りは出そうとして、出せるものと違う。
見えるモノなら、見せられよう。
聞こえるモノなら、聞かせよう。
しかし、“香り”は難しい。
まさに『桃李言わざれども・・・』なのだ。
しかし自分自身を鑑みて、どう香りを放つ存在になれるのか?
なんてことを考えてみると、なかなかどうもわからなくなる。
そんなことをうつうつ考えていたら、以前読んだ本のことを思い出した。
小林正観さんの『そわかの法則』って簡単な本です。
“そわか”っていうのは、般若心経の最後の文句
“ボウジーソワカ”の“そわか”です。
その “そ” “わ” “か”のみっつの音を頭にもつ言葉
掃除、笑い、感謝のみっつを実践すれば
幸せになれますよってことです。
特に掃除は、
トイレを毎日毎回キレイにすると
確実に幸せを呼び込めますって書いてあり、
読んだときはなるほど実践する価値ありかも
って思ったものです。
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旧いモノを大事にする気持ちは感謝の念に通じて・・・ |
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旧き暮らしには、香りがあったことを教えてくれる。
囲炉裏の香りもまた格別 囲炉裏を囲んだ笑いもあって・・・ |
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器物あり清風来たりてさらに颯爽
ただ さりげなく
白い土のかべが格別
手製の木製家具は年月を経て
いっそう逞しくも優しい。
西洋風のアレンジも見えて
整然と美しい 縁側あたり
鉢物も立派な焼き物 |
この本は、幸せになる方法を説いたものでしたが、これこそ
“香りを成す”生き方と言えるかもって、
記憶のどこかで繋がったのでしょう。
掃除も、笑いも、感謝も実は、人に与えることで自らに返ってくるという
布施の法則なのですが、
“香りを成す”生き方っていうは、まさに布施かなぁって。
特に無理しないでも、すぐにでもできること
やっぱり、掃除 笑い 感謝 かなぁって
そんなこと思って、
田村さんを振り返って見ると、思い当たることがある。
例えばこれ。
掃除の行届いたキレイなトイレと、
上の棚にさりげなくある
瀟洒な朽ちた板。
そして
その上のすっきりした焼き物と野草と。
飾らずに飾る ぎりぎりのところ。
唯 すぱっと気持ちよさをくれる。
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離れのトイレにて |
また、
言いようもない気持ちいい玄関。
玄関は、
その家の顔とも言えようが、
決して厚化粧はしない。
化粧の臭いもさせない。
キレイに手入れした素顔で |
愛犬の居場所 陽だまりて |
すぅっと見せる笑顔みたいに素敵。
家に入った人を、幸せにしてくれる玄関。
掃除 笑い 感謝で、愛すべき器物がみな香ってるのです。
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手洗いはオアシスのよう
昔ながらの す戸と水屋箪笥
玄関入ると正面の景色
玄関右手で出迎える器物と花と |
私には、良寛や田村さんのように桃李の遺伝子はないが
掃除や笑いや感謝の実践で、もしかしたら
“ほう葉”くらいにはなれるかもしれない!
なんて思うのでした。
同時にここ何年か私が追い求めてきた
“元気なうつわ”=“元器”への答えが見つかった気がした。
“ほう葉”は、まさに“元器”と言っていい。
かすかに香り 食物をそっと包んでくれる。
しかも、その緑色を失わずとも、
自らは立とうとはせず、包むものを生かす。
捨て身なうつわ 美しく香り立つほう葉
そう言えば、
田村さんに伺った前夜には、旅館に泊まったのだが、
飛騨牛のほう葉味噌焼きが出た。
ほう葉は、食器だけでなく、みごとに調理器具の役割をしていた。
しかも焼かれてもなお、味噌に負けず香り立ち、肉を生かしていた。
その夜は源氏蛍が群れて光るのを見た。
生まれて初めて見たみごとな光景だった。
私ごとだが、この春に生死をわける大手術をして、
生きながらえてほんとに良かったと改めて思った日だった。
田村さんに会うのをワクワクしながら床に就き、
その次の日に 田村さんちで、ほう葉寿司を頂戴したのだ。
今や あきらか“ほう葉”はメッセージとなった。
与えられた余生
なんとかほう葉のように香りたって
多少なりとも人の役に立ちたいものである。
ほうの樹はその花その実は見られずも
葉は落ちてなお香るものかな
-den-
前夜旅館にて ほう葉みそ焼きを喰らう |
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窯場も独特に香りたつ雰囲気がある
自家製茶室 山帰来
つわものどもが夢のあと・・
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