難しく考えると、いい考えは浮かばない。 お風呂の中でボーっとしてる時や、 トイレの中でじんわりしてる時、いい考えがふわりと浮かんでくるものだ。 そうは思っても、知識を駆使して理詰めにするのが、えせインテリの習性なのだろう。 たとえば囲碁。卓越した頭脳で何十手も先を読む棋士と、直感でさす棋士では、やっぱり後者が上なのだろう。よほど経験を積んでないとそうはいかないけれど、自分の背後に、天才的棋士がいてヒントを出してくれるとしたら、どうだろう。 そう、そんな漫画がちょっと前に流行った。『ヒカルの碁』。この漫画は小中学生に囲碁ブームを巻き起こした。平安の天才棋士saiが、ヒカルの背後で碁を打たせるのだ。しかし、その霊を受け入れる天真爛漫な度量のようなものが、saiをしてヒカルを選ばしめたのだろう。最近の人気漫画家はそういうことをよく知っているのだ。そんな度量の大きさみたいなものを、“うつわの大きな人”と言う。私は囲碁はやらないが、勝負の世界に生きるものには、このタイプの人間が多いと思うし、チャンスに強いのは特にこのタイプだ。崖っぷちで、無心になれるようなこのタイプの人にこそ、背後の大きな力が手助けするように思える。もしも星飛雄馬にこのうつわの大きさがあれば、もっともっと大きなスターとして永遠に輝いたであろうと思う。打たれて教育されたものは、硬いうつわには育つが、大きなうつわには育ちにくい。そういう意味では、星一徹は少し厳しすぎた。大リーグ養成ギブスは、小さな“うつわ”養成ギブスとなってしまったのだ。 いつものように論旨は大きく脱線している。 が、湯船で“ボーっとする”ことと、勝負チャンスで無心になれることとは、とてもよく似ていると思うのだ。どちらも、自分だと普段思っている意識(エゴ:自我)から、抜け出た状態だからだ。そんな状態にあってはじめて、人知を超えた力が後押ししてくれる。そういうことを素直に認めて、湯船でボーっとする時間を育てることが、すごくすごく大事なことなのだと思う。だからって、“大きなうつわ養成湯船”を作れってことでは、もちろんない。要は心を硬くしないこと。時に緊張してもすぐに柔らかくできる柔軟な心を育てること。それが闘志を育てることよりも、たぶん大事なことなのだ。 飛雄馬のひとみは、いつも激しく燃えていたが、案の定、自分と相手しか見えてこない。歓声さえも聞こえない彼には、ましてやマウンドとバッターボックスのあいだに、美しい蝶が舞っていたとしても、決して見えない。飛雄馬のひとみに、その蝶や天空の星や月までも見えていたら・・・マウンドで、湯船にでも漬かっているような気分にもなれたら・・・(たとえば国際問題にしても、敵国しか見えていなかったら、その間に存在するジャングルをないがしろにするのが常だ。そうではいけない時代になっている。) まあ、しかし、人間はバランスして生きているから、勉強や練習はそこそこしなければいけない。それでも、しすぎると逆効果なのを、最近になってようやく、教育の場やスポーツ界で認知されるようになった。難しすぎる数学の問題に向かわせられてる時、脳は大リーグボール養成ギブスをはめられている。逆に、熟達した陶芸家が、ロクロを挽いているとき、無心でありながら激しく脳は動いている。そんな脳は、ゆったりと湯船の中で浮遊している気分なのだ。大リーグボール養成ギブスをはめられた脳と、湯船の中の脳と、どちらが大きな仕事をなしうるか。脳も筋肉も長時間窮屈な状態であることによって、大きな成長はしないように思える。 が、大リーグボール養成ギブスにも勝算はある。それは“放尿の法則”と呼ぶべき地の理だ。つまり おしっこは、我慢してなしたときほど、その快感は高い。逆に、ふつうの尿意でなした時の快感は薄い。つまり、ギブスを脱いだときの快感を上手に利用して“投げる快感”を高めるのだ。これは一見正しいように思える。私もつい最近まで、この法則を無上のものと思っていた。が、悲しいかなこの快感には持続性がないことに気付いたのだ。真夏にものすごく喉を渇かして飲むビールはたしかにうまいが、二杯目から格段にうまくなくなる。逆に秋口に飲むビールは、何倍飲んでも、最初と変わらぬ味わいを感じる。これを“秋ビールの法則”と呼ぶ。この二つの法則で、どちらが上位の理かと言えば、言うまでもない。“秋ビールの法則”だ。“放尿の法則”が地の理なら、いわば“秋ビールの法則”は天の理なのだ。強い快感は、持続性がない。しかも危険性もある。膀胱炎など障害をもたらす危険性だ。人体は、天からさずかった大事な“うつわ”だ。無理をさせてはいけないのだ。お釈迦さまは、この“秋ビールの法則”を“中道”とおっしゃったに違いない。苦行を捨て、ただ静かに座ったのだ。たぶん、おしっこを我慢する苦行はないだろうが・・・ つ、つ、 つまり私の言いたいことは、瞬間的で強い快感を求めるべきでなく、継続的でほどほどの快感をもって良しとすべし と言うことだ。(もちろんセックスでさえしかりだ) 具体的には、湯船でボーっであったり、トイレでボーっぐらいで、ちょうど良いのだ。いずれもやっぱり、肉体的制約から軽い開放を伴う。トイレでは尿意からの開放であり、湯船では体重や汚れや臭いからの開放である。秋ビールもまた枯渇からの軽い開放なのだ。しかしそれが、継続的な喜びであるためには、強烈であってはいけない。ほどほどであることが重要だ。って思うんですよホント。 さらに言えば、ほどほどの快さを無上なものだと思うことのできる器量こそ大事なんだと思う。無上のものが、無上の快感を伴うと思うのは、間違いだと思っていい。そこそこな快さの中に、無上の真理が隠されているのだと。そう思うのは、強烈な快感の後には、ロクな経験がないから。まず多いのは、お腹が痛くなる。飲みすぎ、食べ過ぎ。あるいは膀胱炎とか・・・逆に、ほどほどの快感は、健康を持続させ、元気を沸き立たせる。 でもって、あらためて、湯船でボーっや、トイレでボーっの延長線上にお勧めしたいのが、ほかでもない手作りのうつわで、飲む一杯のお茶だ。もちろんその延長線に座禅もある。、その精神を、茶を入れて飲むことに見出そうとした茶の湯の創始者はたしかに偉大ではある。が、その精神をトイレや湯船の中に持ち込んで極めても私にはいいように思う。たしかに、座禅とトイレと湯船とが同列に置けたとしても、茶の湯だけは、違う点がひとつある。 それは、もてなす者と客がいること。なんでその主客にこだわったのか。その理由は数々あろうが、ひとつには、美に対する価値基準の希求があったのではないかと思う。もてなし、もてなされることで、茶室や茶道具にある一定の価値観を紡いでいく。そうすることで、ある権威みたいなものを同時に生み出していった。それが“茶寄り合い”から“道具茶”への流れだったのか。めずらしい輸入品が極端に市場に賑わいはじめた、あの時代だからこそ、そんな願いがあったのだろう。 しかし、別の理由もありそうだ。それは、言うなれば美意識のダイアローグ。自分が美しいと思うものを表明すること。芸術家の創作と類似した自己実現だ。一方で精神的に荒廃した混沌とした時代にあって、逆に静寂を求める気風が、美意識を変えようとさせたとも言える。いわば、歴史的に美的転換点にあったのだ。けれど待てよ。ほんとうに芸術的行為として主格関係が必要であったのか。 珠光は、「茶とは遊に非ず芸に非ず、一味清浄、法喜禅悦の境地にあり」と言ったそうです。 また、利休は、「茶の湯とは、ただ湯をわかし、茶を点てて、飲むぱかりなることと知るべし」と言ったというのは有名です。その両者の言葉の何処にも主客関係はないじゃないですか。つまり、もてなしの心や、美意識の表明などは、二次的なものにすぎないのです。要は自分自身の心との対峙、あるいは崇高な境地への到達こそが、一次的なものなのだと言えます。
でもって、私の言いたいのは、そんじゃあ、湯船でボーっでもトイレでボーっでも極めれば、いいんじゃないの?って言うことです。つまり、禅と飲茶が融合したものが、茶道であるのなら、湯船道や便所道もありじゃんって言うことです。冗談で言ってるように思われそうですが、けっこう本気です。なぜなら、禅における境地にいたるひとつの契機に選んだのが、たまたま当時流行りの茶を飲むという慣習であったにすぎないと思われるからです。ただ、温かい茶が、口からすすられ、喉から五臓六腑に染み渡るような感覚が、その契機として選ばれたことはとても意味あることだと思われる。苦行による修業の対局にあるこのささやかな快感が、悟りへと向かう道の入口となると言うことに他ならないからです。 で、そういう意味では、湯船道も便所道もありだと思う(しつこいか?)のですが、あまり気の進まない人には、ぜひ自室に篭ってお気に入りのうつわで、お茶かコーヒーでもいただいてください。それが、無上の幸せへの扉になるのです。その時、うつわは、無上のものである必要はなく、お茶やコーヒーも極上である必要はないと思うんですが、できれば、心のこもったという意味で自分にとって特別なものがいいのではないか。なぜなら、到達する果ては同じでも、その入口の扉はむしろそれぞれ個性的でいいからです。それが“道”と呼ばれるようになるには、もっともっと洗練されて形式化されなければならないだろうが、そうなると誰が見ても美しい扉からみんなが入ろうとするため、非常に窮屈になるような気もするのです。 確立された美意識の扉から無理に入ろうとせず、自分自身の美意識を深める訓練をしていきたいものです。なぜなら、到達するべき境地は、自分自身の心にしかないのだし、その境地はそれぞれの人間の心の奥底で、かなりの部分つながっているからです。つまり、入口は別々でも、到達するべきところは、同じだということです。したがって、極端なはなし、湯船道や便所道でもOKなのです。で、その同列に、“マイ茶道”を楽しんで紡いでいってほしいなぁと思うのです。他人の目から離れて、自分の心地よさの究極的なありかを探してほしいと 切に思うわけなんです。 で、ここで、 ちょっと関係なさそうですが、良寛の“うつわ”に対する気持ちを表す歌なので、紹介します。
良寛は、いつも所持しているものが、ふたつありました。 毬と鉢の子です。毬はもちろん子供と遊ぶためのものであり、鉢の子は、托鉢のためのもです。何年も同じその鉢を持ち歩き、、飯にも茶にも使っていたようです。 その鉢の子を置き忘れた時の、歌です。 大事な大事な“うつわ”である鉢の子なのに、置き忘れちゃったのです。 しかも、あわれな自分を悲しむのではなく、鉢の子との良き日、良き思い出を 思い出して、鉢の子のあわれを嘆くのです。 良寛にとって、その“うつわ”は道具を越えて、“友”です。 美しいなんて、ついぞ思わなかった“友”なのです。で、 “人はもて来ぬ うれしくも 持て来るものか その鉢の子を” “友”との別れと、再会を瞬時に味わうことのできる良寛は、なんと自由奔放なことか。 学ぶべきことは、良寛の、無心なこころです。 茶道の道具に比して、良寛のそれはあまりにも貧相なものでしたが、 彼にとっては、無上のものであったのは、間違いないことです。 そしてまた、彼にとって到達すべき境地への入口に、“美しい扉”は無用であり、 道中に手毬と鉢の子さえあれば良かったのです。 良寛は道草しながらも、しっかりと究極へと歩いています。 しかも、独歩しているかのように思えて、そうでもないのです。 良寛の行く道を、まず犬が慕ってついていったでしょう。 それから、子供達も・・・それから、心ある村人たちも・・・見識ある知識人も・・・しだいに大勢の人が良寛を、到達すべき境地への道しるべとした。 しかし、この道しるべに、最後まで従おうとしないのが、えせ茶人と、えせ坊主なのだと思うのです。なぜなら、その道しるべには、何も書いていないのだから。“○×△はしてはいけない!”とか“○×△はすべし!”とか、茶人や坊主が言いそうなことは、何も書いてない。いわば、夜空にぽかんと浮かぶお月様にように・・・ただそこにあるだけ で、 最近あってもいいなあ と思うのは、 “月見で一杯道” 老成した星飛雄馬くんと 美しい月下のもと、 囲碁でもさしながら、一杯やりたいもんだと。 そのとき私の背後で、良寛は差し手を教えてくれるだろうか 否か
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