良寛と遊ぶ 2004年3月31日のこと
越前を出立して、岐阜は多治見に向かう。 以前から取引させてもらっている大好きな陶芸家 田村浜男さんのもとへお邪魔するためだ。 今、日本の陶芸界で、自ら土を掘り土作りし、かつ それを薪焼成している陶芸家が何人いることか? 田村浜男さんは、ほとんどの工程を、家族でこなしている 類稀な陶芸家である。 |
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田村家は、ほんとに素敵な田舎のおうち | 採掘してくる土を手にとって見せてもらう | |||
前のページに引用した対馬の巨匠 小林東五でさえ、 今では、効率が悪いので、ガス窯を採用しているという。 小林東五は、韓国の鶏竜山の土が、対馬の土と同じだからと、 今も孤島に窯をもつ、こだわりの人である。 その小林東五にして、いまや薪窯にこだわらないのだ。 また、 焼き締め陶の陶芸家たちは、薪で焼くのが常識ではあるが、 では百を優に超える備前の陶芸家のうち、 何人が自分で土を掘って、土作りしていようか。 それは、土の宝庫、信楽でも似たような状況と思う。 |
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化粧土? さえ採掘する |
土は寝かせる。 寝る子は育つ |
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土に関して言えば、 市販のを主体にして、特徴ある土や成分を混ぜるのが いまや主流だと言えるのではないだろうか。 薪焼成に関して言えば、 焼き締め陶以外で、オール薪焼成をする陶芸家は 皆無に近いのではないだろうか。 |
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ご夫妻はほんとに 付近の自然を愛している。 |
春を告げるふきのとうが、足元に見えるか | |||
そんな陶芸界において、田村浜男はとても貴重な陶芸家だといえるのではないだろうか。 工房には、展示のための作品の傍らに、 古陶の断片が、自らの指針を示すように置かれている。 この古陶への愛着と、自然への畏怖の念と、 いにしえの陶工たちへの敬愛と、 そういうものが、いっしょくたんになって、 田村浜男さんの作陶のスタイルがあるのだろう。 |
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古陶の断面は、青春を回顧するかのように、薪の火を夢みてるように見える | 壷の内側を流れる灰を、普段あまり見ることが無いが、こうやって見ると、圧巻! | |||
このスタイルは、田村家族にとって、 おそらくは、かなり不便な日常生活であるのだが、 多くの陶芸家にとって、このスタイルは夢である。 この旅で、先に会った陶芸家 村田森さん、村田紀之さんも、古民家を再生し、 薪焼成の窯を模索していた。 彼らにとって、この田村スタイルは、ひとつの到達点としての夢ではなかろうか。10年後はこうでありたい!と願うものかも知れない。 しかし、この夢をかなえるのは、いまや非常に難しいと思う。 |
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工房は自然に置いてるものがに、瓢乎として格別なものに見える | 工房の外に並べられた完成品。ここまで来る工程に、うつわの長い半生がある。 | |||
20年前では、可能だったことが、 いまや不可能なことは、たくさんある。 私ごとで恐縮だが、大学生のころ、8mmフィルムで、 自主映画を盛んに作っていたが、それも夢のまた夢、 いまや不可能に近いものになってしまった。 フィルム、カメラ、映写機、現像などの状況が一転したからだ。 が、今思うとその当時状況は、映画小僧にとって 夢のように幸福な、最後の時代である。 (フィルムとビデオは、薪窯と電気窯の違いほどある!) 同じくこの田村さんのスタイルは、 20年後には、夢のまた夢である可能性は高い。 |
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焼き物は、障子越しの明かりや、蝋燭の明かりが似合う。日差しが、ちょっと疎ましげだが、逆に、若い陶たちの元気が、伝わってくるよう。 | ||||
スタイルが重要なのではなく、心が重要だという人がいる。 が、スタイルにこそ、精神や魂の住処があるのだ。 たとえば茶道がそれだろう。 だからといって、立派な道具や茶室は無くても、 茶は飲めるし、茶の精神を垣間見ることはできる。 が、それは、やっぱり違うのだ。 モノクロのビデオと、カラーフィルムほど違う。 この夢の総天然カラー 田村魂(タムラダマシイ)の入った焼き物は 20年後には、数百年の時を重ねた骨董の名品と 肩を並べるかもしれないと、私は思う。 再び私ごとで恐縮だが 20年近く前、任侠映画が好きでよく見に行ったものだ。 藤純子のツボ振る姿が、たまらなかった。 プログラムピクチャーの最後の最後の時代。 多くのどうでもいい映画に埋もれて、 数本の名作が今も燦然と輝いている。 |
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右がかたくり?ひだりは? |
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窯場までの道に、小さな命を見つけては、無知な私たちに、その名をおしえてくれる田村ご夫妻は子供のように無心。 犬も飼い主に似て、無心。 |
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芳香剤とかのCMの富司純子と、お竜さんの藤純子は、 名前が違うだけではないのだ。 雛形あきこごときが、お笑いTVバラエティで、 緋牡丹お竜の真似をいくら上手にやったとしても、 総天然色カラーのお竜さんの“お”の字も、再現できていないのだ!! っていうことです。わかっていただけるでしょうか? さらに言えば、 今となっては、 マキノ雅弘級の名監督と、藤純子級の名女優が出てきても あの独特な色艶を出すのは不可能だということなのです。 ある意味、時代が作らせたものだからなのです。 右の写真は、田村家の風景です。 調度品は、田村さんご自身で作る木工で、 素朴にも洗練された美意識が光っています。 木工の作品などを拝見すると、 河井寛次郎を思い起こしてしまうのですが、 田村さんは、実は小山冨士夫さんの流れを汲む人。 小山富士夫の内弟子 近藤精宏氏の門下だから、 小山氏から見れば、孫弟子と言えよう。 小山冨士夫さん自身 古陶の陶片を師とした人。 私も小山さんの生き方と、焼き物がたいへん好き。 |
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田村さんの作陶のスタイルは、やはり 陶の詩人と言われる小山富士夫の影響が多大にあるように思う。 また、天衣無縫と言われる轆轤の成形にも、 類似したラインがあるように思う。 しかし、もちろん相違もある。 それは、土の選び方ではないだろうか。 小山富士夫は日本中、世界中の土を研究した陶磁器研究家であるから、自分自身の窯をもち、自分の選んだ土を使って自分の窯で焼き始めたのは、かなり晩年のことになる。いわば、女を知り尽くした男が、結婚するに値する相手をようやく見つけて晩婚した みたいなものだ。田村浜男さんは逆に、初恋の人とそのまま結ばれて、その愛を二人して育ていったタイプなのではないだろうか。 縁あってこの地を選び、ここでその土を愛して、 土を掘るからには、その土にあった焼きを終止追及してきたのだろう。 その結果が、田村さんのこの焼きなのだ。 例えば、先に挙げた小林東五の場合、おそらくは敬愛する高麗陶や茶陶の名品が、作陶以前に大きく存在している。 が、田村さんの場合、小山富士夫や古陶への思いは、大きくあるものの、何より先に、“この土ありき”なのだと思う。 その地の自然と、家族と、家と、窯と それらみんなが大好きで、それを育むこの地の土が、何よりも先なのだ。今でこそ、日本中どこにいようと、きれいに精製された土が、自宅まで運ばれてくるが、これはかなり転倒した現象だとも言える。いにしえの窯場は、その土を生かすことが、クリエイティブの主眼であったわけだし、成形も焼きもその結果でしかなかったのだから。 そんな純粋な流れを大切にしたいと思う。 そういう流れを、なにより大切にしているのが、田村浜男さんなのだと思うのです。 一生、土を探して、日本中を放浪する陶芸家もいるかもしれないし、市販の土の組み合わせに、夢中になる陶芸家もいるだろう。 しかし、私は田村さんのいく道が好きだ。 そんな田村浜男さんを“陶の錬金術師”と私は呼びたい。 私は以前、“陶の錬金術師”という言葉を、芳村俊一先生に使ったことがある。日本全国の土を焼いて、陶芸の新しい道を切り開こうとしている“へんどの会”の主催者である。彼は、現在の日本の陶芸は、大陸の陶芸の手法の無反省な踏襲だ。桃山陶を再現しようとする多くの陶芸家にあって、それを根本から再考しようという試みを提唱する。あらゆる土を、その土に合った温度で焼き、あらゆる物質を、釉にしてしまおうとするのだ。この芳村先生こそ、あらゆる土を、陶として生かそうとする日本で唯一の陶芸理論家であり、もっとも偉大な陶芸研究家だと私は思っている。 そんな芳村俊一先生と、田村浜男さんは、方法こそまったく別なのではあるが、同じ目的に向かっていると私は思うのです。 それは、“その土を生かす”ことである。さらに突っ込んで言えば、 桃山陶の亡霊からの開放を目指すものだと思う。 桃山陶は、戦国の大量の戦死者をいけにえとして生まれた、日本陶芸の金字塔であり、現代陶芸のバイブルだと言えよう。しかし、それはやっぱり超えるべき壁であって、最終的な目標であってはいけないと芳村先生は言うだろうし、私もそう思う。 田村さんが、そう思われているかどうか聞かなかったけれども、 作品がそう言ってるように私は思う。 |
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三基の窯(彩火窯)のそばに、瓢乎とした草庵がある。 それを、田村さんは、自分自身の手で設計し作り上げた。 その名を『山帰来』。 炉が切ってあり、床の間もあり、水屋もある茶室なのではあるが、にじり口などなくて、縁側から直接あがる部屋で、外に向かってとても開放的。いかにも田村さんらしい作りだ。 建物の材料も、みなこの地の自然や、民家の廃材から集めてきたようなものばかり。なによりも素敵で目をみはったのは、やっぱり土壁。飾ってる陶作品も、ほんとに見事なのだが、その背後の土壁が実にいい。窓から差し込む光が、絶妙に陶と土壁の抑揚を強調する。おそらくは、計算された採光なのだろう。 ビジュアルアートにおける光は、穴窯の火に似てると思う。 火は、形に抑揚を与える光であり、影を生む。 その光と火の法則を、とてもわかりやすい形で、 この『山帰来』は教えてくれている。 思えば山帰来の赤い実は、火の粉のようでもあり、 人を悟りに導く光子のようにも思えてくる。 だが、踏み込むと、棘にやられて抜け出せなくなる。 恐ろしい一面をもった植物だが、火も光もそんなとこがある。 陶芸の世界も、確かに魅力に溢れた世界だが、入り込めばこれがかなりイバラの道である。
(これは、仏の道に関して問うた貞心尼への返歌。1から積み重ねて10までいったら、また1から数えなおすべしという単純な摂理を、鞠つきに例えたシンプルな歌。文字を知らない者に、書をせがまれて書いたという 一二三の書。) 土を掘り、土を濾し、土を踏み、土を寝かせ、 釉を調合して、土を生かすように成形して、釉がけし、 薪を作って、窯入れして、数日にわたり窯を炊いて、 窯出ししては、また土堀からはじめる。 そんな田村さんの道に、通じる歌と書であると 私は思う。 |
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購入するべく、作品をもろもろ選別している間、田村さんは化石が採れる近くの沢に、子供たちを連れてってくれた。帰ってきた子供は、きらきら目を輝かせて喜んでいたが、それ以上に田村さんは、子供のように汚れて、嬉々としていた。子供にきれいな化石を差出し、“もっていけ”という田村さんは、子供より子供らしい笑顔。そんな田村さんの笑顔に、にわかに感動した。 最後になったが、奥様は、田村さんの初恋の人?かと思しき、良家のお嬢を演じる藤純子のような美人。土に惚れたのが先か、奥様に惚れたのが先か、長か半か、息子さんはもう高校卒業のようで、映像表現の方へ進みたいような話を聞いた。息子さんも小さい頃から窯入れや炊きを手伝ってきたそうである。窯炊きのときは、おやじと、山帰来に寝泊りしたりしてきたそうだ。作り出す映像には、是非タムラダマシイのはいった光を刻み込んでほしい。 光の錬金術師めざして・・・ →関連ページ:おふぃすC´「彩火窯」 |
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貝の化石だ。 山の下の方には化石博物館もあり、 太古のロマンがしのばれる。 |