私たちはどこからやってきて どこへ行こうとしているのか
その答えが少し分り始めてきている気がしてる。
私は今この文章を平成16年12月12日に書いている。
春のこの旅から、8ヶ月が過ぎようとしている。
その8ヶ月は、かなりがむしゃらに働いたような気がする。
いつもそうなのだが、働きすぎると、ほどよく体を悪くする。
今回は足だ。
左のふくらはぎがパンパンに腫れて歩けなくなったのが、20日前。血栓らしい。
しかし、いつもそうなのだが、体を悪くすると"気づき"がある。
5年くらい前、指を落としそうになったときも、大きな"気づき"があった。
今回はそれほどではないが、簡単なことにあっさり気づいた。
足が痛くなったのは、メッセージだということ。その意味は、いづれわかってゆくのだろう。メッセージは、届いた時に、意味を明かすものとそうでないものがある。わたしはその後者の方がずっと大きなメッセージなのではないかと思う。一生かけて解き明かしていくメッセージがあるのなら、それが一番大きな気づきをもたらすのだろう。
さて、私は、人間が霊的な存在であることは、以前のいくつかのメッセージによって確信している。私たちはもともと霊的な存在でありながら、あえて肉体をもって学ぶためにこの世に生まれてくる。肉体(意識も)はその霊的な魂を入れる"うつわ"にすぎない。しかし、この"うつわ"こそ、肉体をもたない霊的存在たちが、手に入れようとして願って止まないものなのだ。"うつわ"を選ぶときの、霊たちの美意識は、もちろん私たちの現世的な美意識とは違うだろう。物欲とまったく切り離された選択眼だ。つまり、肉体や頭脳が優れている"うつわ"を選ぼうとしない。むしろ逆だ。偏った心や障害をもつ体の方が学びが大きいために、人気のマトとなる。そういう"うつわ"に、霊たちは美を感じるのではなかろうか。そんな逆説的な美こそ、ある意味、高次な美と言えないだろうか。
私は、陶芸家のつくる"うつわ"をよくよく眺めると、いくつかの欠点に気づくことがある。汚れやすさだったり、重心の位置だったり、釉の溶け方だったり、厚みや重さだったり、さまざまなのであるが、その欠点があるがために、全体として慈しみをそそるものとなっていることにも気づく。精霊たちの選択眼はそういうまなざしに近いかもしれないと思うのである。
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この書は、良寛の書で何度もこのコンテンツに掲載している書だが、慈しみと知に満ちた精霊たちの美意識を感じずにいられない |
旅の最中にもどろう。
越前を朝発って、多治見に着いたとき、まず私たちは作家ものの陶芸ギャラリー(陶林春窯)に立ち寄った。そこはとても大きくて、多くの新鋭の作家さんたちの作品がきれいにレイアウトされて置いてあり、特に角田武さんの作品に魅了された。他の作品は、若い作家さんだけあって、奇をてらうものが多かったのだが、角田さんの作品はオーソドックスなのだが、オリジナリティーが光っていた。田村浜男さん(前頁参照)のところに行く前に、角田さんに電話してアポをとった。田村さんのところを発ったころには、日がずいぶんと傾いていたのだが、角田さんは道に出て迎えてくれた。工房は作品もきれいにレイアウトされていて、仕事の内容がひと目でわかる感じだった。
角田さんは、とても気さくな方で、いろいろおもしろい話を聞かせてくれた。
作品は、バリエーションこそ少なくて残念だったが、角田さんらしさが出ている作品ばかりで、うれしく思った。
他のHP上で拝見したのですが、角田さんが最初に魅了されたのは、中学生のとき見た楽焼の本の志野だったそうだ。そういえば、角田さんの粉引は、粉引といっても志野のようなマット感がある。おそらくは、化粧土に長石が多く、透明釉をほとんどかけないのだろう。あるいは長石釉といってもいいのではないだろうか。
思えば、志野は、白い食器への憧れから生まれたにもかかわらず、鼠志野や赤志野の出現のように、変化を求めることをやめなかった。美濃(多治見)が培った志野は、基本が白であるだけに、逆に絵も形状も大胆で挑戦的な道を辿った。そんな歴史の延長線上に角田さんの白いうつわはあると思う。しかも、そのうつわには、やはり精霊たちの美意識があるように思うのだ。
そんな美意識がはっきりと見えたのは、愛用のポットを見せてもらった時だ。とても洗練された食器類とは打って変わって、そのポットは子供が作ったもののよう。重くて、使いにくそうな感じだった。が、その生き物のような愛らしさは格別。それを見て、改めて食器を見るとその美点が、いたるところに隠れているのが見つけられるではないか。
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蓋の取っ手は、クマか、フクロウか?
足は、動物?
注ぎ口は、爬虫類?
食器類では隠されている自由奔放な
子供っぽさが、率直に露出してる。
悪い言葉で言えば、ムラッ気がある。
しかしそのムラッ気を、大事にしながら
研ぎ澄ますように鍛錬していくと、
慈愛に満ちた良品になるのだと思う。
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高台のつくりや、
縁のつくりに、長年の改良の結果がある。
だが、そこにこそ隠し切れない愛らしさが見えてくるよう。
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さらに、目を近づけると、
長石のまろやかな透明感と、
私好みの土味とが、
微妙にバランスしてる。
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もしかして、欠点のように見えるところに、
最大の長所が隠されていることがよくある。
いや、むしろそれが摂理ものなのかもしれない
そして、
既成の美意識の向こう側に、もっと暖かく、慈愛に満ちた美意識がある。
角田さんの作品に、そんな深い奥行きを見たような気がしました。
ほんの短い間しか、コミュニケーションできませんでしたが、
角田さんには大切なことを教わったような気がしました。
すぐに痛くなる私の足腰も、私を遠いところに優しく運んでくれる箱舟の“舵”なのかも。
ちなみに、私の足は、普通の人よりやや短めです。
腰周りは、やや太めです。一般的には不恰好かもしれません。
良寛はと言えば、僧には似合わない、ひょろっとした長身だった。
私と違いえらい健脚だったようです。
あなたのうつわはいかがですか?
ではでは
ps.この後私達家族は、多治見から中央道で、家路に着く。
ハードな旅行だったが、家族にとって忘れがたい思い出になりそうだ。
精霊が自分のからだを選ぶとき、家族もいっしょに選ぶのだろうか?
気性が強くて、何かとぶつかり合う家族だが、まためぐり合いたいものだ。
遠い旅路の果てで かならず。
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