良寛と遊ぶ 2004年3月30日のこと
京都を出て、名神高速から北陸道に入ると、 急に山が迫ってくるような気がする。 越前といえば、信長を脅かした戦国大名朝倉家を思い起こす。織田と朝倉の有名な戦いである姉川は、この北陸道の西となる。琵琶湖をはさんだ東西のルートは、京都への重要なルートであったことは間違いない。特に朝倉家の居城であった一乗谷は、混乱する京を逃れて、文化人が集まった場所で、『第二の京都』と呼ばれたという。めざす宮崎村は、この一乗谷から越前岬に向かう途中にあるといっていいだろう。 とても走りやすい道で、あっと言う間だ。 武生っていうインターで高速を降り、宮崎村の越前陶芸村まで着くのに、京都から3時間とかからなかった。 前日のスピード違反の写真は、警察にまわって、もうナンバーから所有者が割り出されてる頃か。もちろん、その事実を私はそのとき、いまだ知らないでいる。 話はまた戦国時代に戻るが、織田の越前攻めで金ヶ崎まで攻め入った時、背後の浅井に裏切られた。それで信長はほんとに命からがら京に逃れた。このとき、浅井裏切りの報がもう少し遅ければ、あるいは、朝倉方の追撃がもう少し迅速であれば、確実に信長は死んでいた。比叡山の焼き討ちも、天下統一もなかった。歴史は変わっていたのである。このときの『知らぬが仏』はたれぞと問えば、延暦寺の宗徒たちではなかろうか。京に入ろうとする信長を延暦寺が討ち取っていれば、後に焼き討ちにあうようなことはなかったのだから、まさに、知らぬが仏。比叡山の僧たちは、このとき、知ってか知らぬか、仏心か、信長をやすやすと延命させてしまうのだ。 さて、織田勢の苦戦に反して、私たちは、あっさりと越前に入った。 宮崎村の陶芸村は、展示場、販売店、体験施設、旅館などの複合した公園で、それを囲むようにして陶芸の窯が点在しているようだ。 |
↑琵琶湖-越前の付近の戦国古戦場
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めざす村田紀之さんの自宅兼工房も、陶芸村からほど近い場所にあった。どこにでもある田舎の景色に溶け込むように。京都で会った村田森さんと同じく、古民家を買って再生中ってところだった。そしてやっぱり、薪焼成のできる窯をもちたいとおっしゃっていた。思えば、古窯はみな、窯の傾斜に適した地形持っている。この宮崎村も、丹波などに似て、そんな傾斜をたくさん持っている。 さて、家のなかにお邪魔すると、紀之さん作のオブジェがすぐにお出迎えしてくれた。子供の玩具のような陶製のそれは、バックの土壁に異様なまでに馴染んで、家と一体化している。 また、下に目をやると、ちいさな酒甕のような陶がいくつも並んでる。これがまた、無造作ではあるのだが、絶妙に土壁とマッチして並んでる。いわば、百年もまえからそこにあったかのような新作だ。 それから、玄関入ってすぐ真正面に、気になる写真を見つけた。以前写真家だった紀之さんの忘れ形見とも言うべき、一枚の写真が飾ってあった。とても印象的なモノクロ写真で、少女のような素朴な女性が映ってる。 |
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私もかつて何年も映像に携わった者である。だから映像表現から離れて、陶芸の道を行く紀之さんの気持ちが分るような気分になる。映像表現は空間と時間を、無理にでも切り取るような強引さがある。一方、陶芸は時間のなかに溶け込んで、生活の中で育まれるような土着性がある。 生活の中に芽生えるから、生活を超えたり、生活を完全に満たしてしまったりしないのが陶芸だが、その一枚の写真は、たった一枚で、この家を濃密に満たしていた。 しかし、生まれたばかりの赤ちゃんを抱いて現れた若いかわいい奥さんは、さらに力強い雰囲気と満面の笑顔で、その家を彼女色に染めていた。エネルギッシュな生命力は、ほんとうにすばらしい。芸術より生活の方が、より真であり善である。そう教えてくれるようなすばらしい笑顔だった。 そして、また、育ってゆく赤ん坊が、この家を自分色へと染めてゆくのだろう。その傍らで陶芸家は、淡々とした生活の中から、好みの色を発見してゆくのだろう。 村田紀之さんの作品のなかに、“月見”と呼ぶ釉調のものがある。荒涼とした月面の多様な景色と、輝くお月様の神秘をあわせもつ、不思議なうつわたちだ。これは、ほんとうに紀之さんらしい作品。マクロに見たら輝きで、ミクロに見たら影。艶っぽくもあり、渋くもある。『土は越前で、焼きは唐津』と自ら語る陶芸家の、真骨頂がここに見える。 |
クリックすると拡大画面が出ます。 わぁーい素敵!パパとママ クリックすると拡大画面が出ます。 左のカップが“月見” 先に載せた酒甕のような酒器も“月見” |
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雨が降り出した。 外で遊んでいた子供は車に退却して、ずいぶんと退屈していたので、、とりあえずの購入分を決めて、越前の和紙や漆の工芸を見に、1時間ほど車を走らせることにした。 その途中、自分が懐かしい歌を口ずさんでいることに、ふと気付いた。 『フランシーヌの場合』という歌で、小学生の頃に流行った歌謡曲だ。→ なぜ突然、この歌が出てきたかと考えると、 3月30日というこの日の日付と、先ほど見た少女の写真が、頭の中で無意識に結びついたのだろう。 小学生の私はこの歌の意味を知らなかった。その後の人生でも、ほとんど振り返ることなかったので、今になってもその意味がわからずにいた。 この旅行から帰ったあと、インターネットで調べて初めて知ったのだ その意味を・・・ 1969年3月30日の日曜日の朝、女学生だったフランシーヌ、ルコルトはベトナム戦争とビアフラの飢餓問題に抗議してパリで焼身自殺した。そのことは、衝撃的に世界に報道された。この歌は、この事件を歌った反戦の歌なのです。 折しも、イラク戦争が激化する今日に、この歌が私の口をついたことに、とても意味を感じる。 知らぬが仏だ。 私は、この意味を知らずに、この日ハンドルを握りながら、この歌を口ずさんだ。30年以上の時を越えて、この歌が私を捉えたのだ。 |
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今、この歌の背景を知っても、反戦の歌としては、なにか説得力がない。それは、この歌がもっと普遍的な愛を語っているからに違いない。『燃えたいのち ひとつ』とは、愛に燃えつきた少女の純情だとばかり思っていた。(文字通り、焼身だとは思ってもみなかった)が、それはある意味正しいのだ。人間の非道を一身に背負って、焼身自殺した少女の心は、純情という言葉でしか言い表せない。穢れを知らない少女がなせる技。つまりは、知らぬが仏-少女の純情にほかならない。清濁を知り尽くしたものには、できない行動だ。 テレビでは物知り顔で、戦況や政治的背景を語る評論家たちがたくさん出演してる。政治家も同じ。小泉やブッシュは、毎日のようにうそぶいてる。私たちも、そんな事情を自然と諸々知ってしまうわけである。が、フランシーヌの純粋さを大事にしたいと改めて思う。知りつつもなお、何も知らない少女のような純粋さで、悪に反旗を翻していたいと思う。 |
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首を回らせば 五十有余年 人間の是非は一夢の中 山房五月 黄梅の雨 半夜 蕭蕭として虚窓灑ぐ 良寛の有名な漢詩で『半夜』という。 人の生き方に是(善)も非(悪)もない。 一瞬の夢だと良寛は言う。 ではなぜ、良寛は気候のいい五月の深夜に、窓を流れる雨のしずくを、呆然と見つめているのか?それは、生涯一心に是非を問うてきたからなのだと思う。一瞬の夢にすぎないのだが、その夢のなかにあっても問い続けることが、『生きる』ことなんだと解したい。 いま一時、問うのを忘れて、流れる雫と溶け合ってしまいたい。そんな詩なんだと思う。 『知らぬが仏』でなく、何もかも知っていて(何もかも問い尽くして)、なお『知らぬが仏』のごとく存在する。そんな境地なのではないだろうか。少女の純情をもった老練な僧。それが良寛なのではないだろうか。 良寛の場合は あまりにもおばかさん 良寛の場合は あまりにさびしい |
陶芸の村の駐車場にて??? |
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私たちは越前和紙と越前漆を、ひととおり見て、 宮崎村の村田紀之さんの家に戻ったときは、もう暮れかけていた。工房は昼間の色と、違う色に包まれてた。選んだ作品は既にきれいに梱包されていた。梱包にも人柄は出るものである。きっと一生懸命梱包してくれてたのだろう。 話は少々遠回りになるが、茶陶の巨人;小林東五が、こんなことを言っていた。『東洋人の美意識にもっとも大切なのは、懶(らん)の精神だ。』というのだ。懶とは、怠けるような気分のことだ。この懶と言えば、私は良寛のもっとも有名な漢詩を思い起こす。
立身なんてのは、めんどうくさいってことだろう。 そんな懶い気分を、村田紀之さんの夕暮れの工房に感じた。昼にはあんなに生気に満ちていたのに、いままさに懶なる気に満ちている。しかし、懶なるがゆえに、元気が沸いてくるのだと思う。暗愁を一心に感じてこそ、時を忘れて励めるものなのだと思う。その落差にこそ、美的表現の秘密が隠されているようにも思う。 最後に余談ではあるが、なにごとも物憂い良寛ではあったが、なぜか女装は喜んでやったそうである。女装して盆踊りするのが、大好きだったのだ。きれいな女に間違えられると、大喜びして、はしゃいだそうだ。 う〜〜ん これって 少女の純情? あるいは・・・あまりにもおばかさん 良寛の場合! 明日は多治見に寄って、川崎に帰る予定。 |