★ギャラリーか会員ギャラリーにて、“北国”というワードで、コメント検索をすると、出展作品が全品表示されます。 北国で元気に作陶する期待の陶芸家4人
展示会風景4/18撮影 |
元気なうつわ展 北国篇によせて
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とはいえ、沖縄には河がほとんどないし、賀茂川と石狩川の風情は、まったく別のものだ。 人も栖も“うたかた”には違いないが、その一時に放つ光は違う。 その光に感じ入るから、人は生きていけるのだろう。 |
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さて、今回はその栖が北国の陶芸家に注目してみたわけです。 北国っていうとなんとなしに演歌的情緒を感じる人が多いのではなかろうか。恋しいけど、離れていたいような-愛憎入り混じった想いになってしまうからか。かく言う私にも実は非常にそんな気持ちがある。心のふるさとなのに、他人には知られたくない みたいな・・・複雑な感情・・・ 一方芸能界ではやたらに沖縄出身のアーチストが活躍し、北国はその対極に置かれてポップでない感じが染み付いてる。 しかし、沖縄出身の人気アーチストに共通している個性は、逆にその土着性にあるように思う。すなおに土地柄を匂わせている個性が強いのだ。なのに北国の者はその、土着性を隠そうとしている。 それが結果的に良くないものになっていると思う。 土着性から逃れて、無機質なものを追求するとポップアートみたいなものになるが、根っこのないアートは、日本庭園のなかの大理石の石像みたいなもので、瞬間的な異化作用でしかない。もっともっとその土地の匂いを匂わせてほしいと思う。 架空の龍にあこがれる以前に、 志の高い蚯蚓(みみず)であってほしいなんて思うのです。 |
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今回、出展していただく4人は、それぞれに厳寒の北国で作陶し、その土地の個性を大事にしている。その風土というものが自然と意識されているように思う。その自然さがいいと思う。それぞれに、なんらかの縁でその地で作陶しているからには、その土地の風土を生かしたいと思ってる。しかも、より重要なことは、西日本に蔓延る既成概念に縛られていないということ。“朱に交われば赤くなる”のは、如何ともしがたい。瀬戸や信楽や萩や唐津近辺で、個性的なものを作ろうとすれば、はじかれ、伝統的なものに徹すれば、とらわれすぎだと批判されるのが常だ。傍から見れば、潰しあいみたいな事をしてるようにも感じられる。一方、雪に埋もれて真っ白な土地では、“朱”は遠く、薄いように見える。彼ら志の高い陶芸家のうつわは、その風土と陶芸家の個性に自然と染め上がっていくように見える。彼らも、やっぱり南や西を見てると思うが、関東も関西も九州もいっしょに鳥瞰してるように思うのだ。そのスタンスってとっても重要なのだと思う。 窯場や産地を鳥瞰すること 需要分布や流行を鳥瞰すること 陶芸の歴史を鳥瞰すること 人生を鳥瞰すること 人とうつわの関係を鳥瞰すること等々・・・ そんな鳥瞰するための翼を、北国の真摯な陶芸家は持っていると思うのです。 |
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西村和さんは、札幌市の郊外で作陶している素敵な女性です。 彼女とお会いして感じたのは、やっぱり自然体ということだろうか。彼女のHPの“秘密の花園”というコンテンツで素敵な草花を紹介しているが、そんな可憐な草花のよう。まず奇を衒わない姿勢、端正なつくり、技術に対する旺盛な意欲、柔軟な美意識 みたいなものがとても好感できました。 特に木彫りの漆器のように見える三色の陶器には、不思議に惹きこまれた。北海道が持ってる独特の土着性と、都会的で洗練された雰囲気が、うまく調和しているのです。民芸の一刀彫りの熊を、うっすら想起させるも、民芸品からもっとも遠いアートなツールになっているのです。特にそれは、手に持ってみると分かります。感じられるのです。民芸品の重さが少しもない。端正な技術に裏打ちされた、アートな軽みに満ちているのです。 まったく別の方向で、言い換えれば “北海道の大自然に育まれた天然水”みたいな作品です。 |
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工藤和彦さんは旭川、石狩川の上流の方に工房をかまえて作陶に励んでいますが、もともとは神奈川の小田原の生まれで、信楽で師事したそう。師事したのは、最近映画になった神山清子という信楽の焼き締め陶の第一人者。厳しい師だったそうだが、おかげで、陶芸に対する厳しい姿勢が身に付いているのだろう 成型の確かさ、焼きの確かさがとても感じられる。素敵レシピの栗本はるみさんの選ぶコンテストに大賞を受賞したのも、そういった技術力の確かさが大きいと思う。陶芸界の正当な道をたどってきた者の、自負さえ感じられる。 それから縁あって北海道に行ったのだ。 縁あって益子でならまだわかるが・・・ その軽みと、縁を大事にする姿勢が素敵だと思う。 その姿勢は、その地の土に対する態度にも表れていて、北海道の耐火度の低い土を利用することによって、独自の成果を納めてきた。ただ北海道の作家さんは多くの場合、その地の土にこだわっていないように思う。それがまた、土着性を弱めて、洗練された印象を生んでいるのであるが、そういう状況だからこそ逆に、北国で作陶する意味を問い続ける姿勢が大事だと思う。工藤さんは、そういう事を良く知った頭のいい陶芸家だ。黄粉引と呼ばれる一連の作品には、その鍛錬の成果がきっちり見えている。頭ばかりか、うらやましいほどのイケメンではあるが、その作品は厳しい格闘の後をしっかり表出している骨太な作品だ。 |
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田村健さんは、数年前“バイクで放浪している日記”をweb上に公開していて、それを読んでいたことがあるからか、“放浪する陶芸家”って印象があるのだが、改めて経歴を見直すとやっぱりそういう血統かもって思う。 西行や芭蕉や山頭火が放浪の詩人なら、放浪する陶芸家もありそうなものだが、あまり聞いたことがない。陶芸家は腰を落ち着けないと、できない職業だからだろう。転々としてきた田村さんが、生まれ故郷の北海道で開窯したのは、やはり心の故郷だからなのだろう。 作品は、ストイックな印象を受ける。デザインを右脳で形にして、手を従わせるタイプのせいかもしれない。色も形もストイックなのだが、施釉の時の指跡を非常にうまくポイントにして、見るものの情緒を刺激する。ラップに唐突にメロディアスなバラードが入ってくるみたいな感じか。ハードボイルドな探偵が子犬好きって感じか。狙いが見えても、グッときちゃう。そんなニヒルなものとエモーショナルなものとの対比がうまい。これもまた、放浪によって鍛え上げられた魂のなせる技と言えるかもしれない。 “ランボーの匂いのするうつわ”なんてキャッチが似合うかも。 |
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樽見 浩さんは、東京生まれなのだが笠間で修業してから、 沖縄にあこがれて過ごす。 が、今は山形の南陽市という北国で作陶している。 大きな体格で、見るからに心やさしい。そんな彼はきっと南国向き。しかし、諸々の事情で雪国で作陶を続ける。 彼の心の故郷はむしろ南国なのだろうが、想いは遠いほど、強化されるようだ。 黒澤明が言っていた。夏に夏の撮影をすると、暑さを表現することを怠ってしまう。冬に夏の設定の撮影をするときは、暑さを表現するためにあらゆる努力をする。結果は後者の方がいいという。 樽見さんのスタンスにも同じようなことが言えるかもしれない。おおらかな南国情緒を厳寒の北国で昇華させようとしている。 思うに創作は、引き裂かれた方がいい。沖縄で、のほほんとして作陶するより、きっと多くのものを磨いているではなかろうか。もし、樽見さんが再び沖縄で作陶するようになったら、逆に北国への郷愁が彼の作品を強化するような気がしてならない。 ライフワークになっている抱瓶は沖縄の酒器だが、普遍的な郷愁を感じさせていると思う。大好きな作品だ。生き物のようなうつわだ。 |
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前回は、“元気なうつわ展 関西篇”ということで、いろんな意味において伝統の中で作陶する陶芸家に注目してみましたが、今回は、伝統の外側で、伝統を鳥瞰するような陶芸家を紹介できたように思います。しかし、たとえ伝統から遠ざかろうと、陶芸家は、その風土から遠ざかることはできない。もし、それさえも拒否するのであれば、工業デザイナーになってしまう。今回の4人の陶芸家は、陶芸家として、脱個性と没個性の間で、引き裂かれながらも、うまくバランスしていると思う。 はるか地平を鳥瞰する翼と、足元の蚯蚓の心とを持っていれば、元気は、どんどん湧いてくる。 雪と寒さの代償に、彼らはそれらを手にしているんだと私は思う。 |
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平成17年4月 うつわのみせDEN 田口巌 |
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