■■■■■■■■■■■■■■■■女流作家によるインテリアとしての陶展■■■■■■■■■■■■■■■■

↓それぞれの作家の出展作品は、名前をクリックして下さい。 
長谷川美知子
鷹尾葉子
清水知子
おかもとじゅん子
宮嶋淳子
進藤千津子
谷田部まりこ
加藤 音
安矢乃
古角志奈帆
ほか作品
プレビュー

3月18日(火)〜29日(土)期間中は24日のみお休み
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インテリアとしての陶展にそえて 
 “インテリアの陶は、壷中天への扉”

 

古来 陶は人の役にたってきたのは間違いないのであるが、その中でもとりわけ人々の役に立ってきたものと言えば、『壷』に違いないと私は思うのである。飲料や食物を貯えて、保存したり、運んだり、熟成させたり、その用途はとても多く、しかも古今東西を問わずに広く使われてきた。しかしながら、ここ百年ばかりのうちに『壷』はすっかり影を潜めてしまった。主に『壷』は、冷蔵庫とプラスチック容器によって代わられてしまったのだろう。

 

 悲しいことである。

なぜ悲しいのか。それは、土が、あるいは陶が嘆いているからだ。『土は壷になりたがっている』と言ったのは小林秀雄だが、けだし名言である。私もまさにそう思う。そして多くの陶芸家も、陶工も、そして今や陶芸趣味の輩も、声を大にして言うだろう
『土は壷になりたがっている』と!

壷の形は、大きさと高さを確保するために、あるいは重力に抗って自重を支えるために、理想的な曲線を描いているし、そのゆったりとして大きい胴体は、土の持ち味と焼きの変化を見せるのにも実に好都合にできている。『壷』は用の美の原型のような代物だと言えよう。だから、ほんとうに陶芸家も陶工も壷を作りたくてしょうがないのである。しかし、現代社会において『壷』はそうそう売れるもんではない。だから陶芸家も売れる大きさの皿なんかを渋々たくさん作るのだ。皿がいけないわけではないが、『壷』があんまりかわいそうだ。土が一番かわいそうだし、陶芸家や陶工もかわいそうでならない。壷よ壷 お前の生きる道は閉ざされたのか!

 

 果たして可能性を秘めているのは、インテリアとしての生きる道である。ボクシング一筋に生きてきたガッツ石松が、芸能界入りして結構イケル!って感じか?剛碗直球投手がある日突然変化球みたいな違和感はぬぐえないが、それでもしょうがないのだ。それが男の生きる道なのだ。いづれ壷の本来的な使い方が脚光を浴びる時がきっと来る。(あるある大辞典かなんかで取上げられて、壷に一週間貯えられた水を飲むと癌に効果的!みたいな…) その日まで、壷はカメラの前で笑顔で自らの生きざまを語り続けるしかないのだ。

 

 さて我々スポコン世代の男たちは皆、少年の頃、ボクサーか野球選手を夢見てた。それでもその夢を追い続けるものは、極々一部。ほとんどの男は、しがないサラリーマンになるのだ。子供の頃の夢を一生持ち続けた者だけが、プロのプレーヤーになるわけだが、壷をこころざす土塊は、今やそういう夢追い屋でなければ、壷にはなれない。しかも苦労して壷になっても壷本来の仕事ができずに、傘立てにされたりするわけだ。それでも壷は腐っても壷。土の魅力、陶の魔力、火の神秘で人々の心を動かす力は、陶のなかでも随一。また壷は、人の心を引き込む力では、テレビの比ではない。いやいやむしろテレビの対極にある。テレビは情報を累々と伝達する道具でしかないが、壷は逆に情報を遮断して己に対峙させる力がある。壷の中に頭を突っ込んだことのある人はいないか?あれは壷がして、人をそうさせるのだ。決してそういう輩がオッチョコチョイなわけではない。

  さて“壷中天”という中国の故事をご存知だろうか。
 こんなのである。

「市場の中に一人の薬を売る老人がいた。その老人は毎日仕事が終わると店の軒にある大きな壷の中にひらりと跳び入る。市場の人々は誰もこのことを知らなかったのですが、費長房という役人の助手だけが物見台の上からそっと、その光景を観ていた。なんと不思議なことだ。そこで彼は老人の店に行き何度もお願いすると、老人は彼をその壷の中にいっしょに入ることを許した。そしてその中へ・・・。そこはまさに別天地。見たことも無いような素晴らしい世界が広がり、荘厳を極めた玉殿で、美味しい酒や料理をたらふく飲んだり食べたりして、再び外の世界へ出て来た。」

 

一般には、“壷中天”といえば別天地とか楽園を差すのでしょうが、私はここでの壷を、日常生活にぽかりと空いた穴ボコみたいなものだと感じました。
それはまさにDEN(小動物の巣穴)!
日常生活は多忙で煩雑なことの繰り返しですが、ひとたび壷(=穴)の中に入って日常世界を遮断できれば、そこには楽天がある のだよ!っていう話に思えるのです。壷は、ドラえもんの“どこでもドア”みたいなもの。ほんとうは“どこでもドア”は、結構いろんなところにあるのです。それなのに…見ようとしない。信じないのだ。でも、信じたいと思う者たちも古今東西ずいぶんといたのだから、この話が珍重されて受け継がれてきたのに違いない。

  

 さてさて、インテリアとしての陶というお話である。

食器としての陶は、食欲の力によって、陶に正面から対峙できない場合がある。素晴らしい扉だと解っても、その扉の前に食欲様が立ちふさがるからである。お茶はそういう意味では理想的ですが、日常化されすぎていて、やや陳腐に感じるときもある。そこでインテリアとしての陶の出番。インテリアは、食欲という圧倒的な力から開放されているからだ。インテリアとしての陶たちが、“どこでもドア”発見の契機となるのを期待する。例えば、心を込めて作った陶の鉢に植木を植えかえたとする。すると、あれ不思議。植木に毎日水をやるごとに、陶がしゃべるではありませんか。
『ネバーランドにようこそ!
      私が扉です。』
あッ 
そういう君は、星飛雄馬の情熱か?
矢吹ジョーの憂愁か?
はたまた陶の王たる壷が言わすか?

こ、こ、こ、こんなふうに?日常をいくぶん異化する働きをしてくれるのではないでしょうか。陶の温かみに振れるその瞬間に、費長房の夢想が再び具現化してくる。その陶作品達が偉大なる壷の志を継承し共に心なごますインテリアとしての役割を担ってくれることを切に願う。

 

“壷中天”それは、少年の憧れであり、壷のこころざし。
 そして陶の大きな可能性。

 

日常的な多くの生活シーンのなかで、陶をどんどん導入していくこと。それは“壷中天”への扉を増やすことに等しいと私は思うのです。がんばれ陶!頑張れ壷!たつんだジョー!

 

 

平成15年3月7日      
うつわのみせDEN店長代理 田口巌


 長谷川美知子作 あかり


 清水知子作 あかり


 古角志奈帆作 植木鉢


 宮嶋淳子作 フォトスタンド


 鷹尾葉子 陶函


 加藤 音 作 植木鉢


 安矢乃 作 鏡


 進藤千津子 作 引き出し他


 谷田部まり子 作 ドッグプレート、ミニ器

 PS.インテリアの陶として、現在もなお本来的な役目を大きく担い、ほとんどのシェアを獲得している陶たちがいる。その名を便器!がしかし、幼い土たちは、あまり“便器”に憧れないので、話の外においといたことを了承いただきたい。

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