うつわと前方後円墳の秘密 その1.

 

今『国民の芸術』という本を読み始めている。

この本は、近代の手垢のついた歴史観から解放され、自由に読む者の創造力を非常によく掻き立てる本である。それでもって私も調子に乗っていろいろ書いてみたい気分になったのです。

さて、この本を読みはじめるといきなり、日本の神話とその神々の偶像表現の徹底した禁止に関しての考察に、たいへん共感した。つまり、日本開びゃくの神話とそれにまつわる神々は、古事記と日本書紀に記述されているもののそれ以前は、あらゆる表現において回避されていて、それを言葉にすることすら避けられてきた。誠にその通りの事実である。7世紀になってようやく文字を使うようになった日本民族はかろうじて古事記と日本書紀において神々のその圧倒的存在と影響力を記述するものの、神々がどんな形でどんな色であったのかを、信仰厚い古代人の遺品などから想像することすらできない。それは、偶像崇拝の禁止が徹底的に厳守されていたことによるとしか考えられようもない。そういえば、日本の神々が偶像化を拒み続けている事実は、現在でもなおその痕跡をとどめている。神棚には今も棚があるだけでご本尊的偶像を置く事は決してない。また伊勢神宮の神殿は、神が降臨するべき座的空間はあるものの、神そのものの本尊などはない。つまり立派な家はあるが、主人がいないような宮となっている。日本各地に点在する神社もまた然りである。非常に神秘的に隠されたこの神の存在に、私の創造力は武者震いして勢いだち、かなりロマンチストな想像をするに至ったのです。それは前方後円墳の形についての思いつきから始まる。そのことがこの書き汚しの主題となってゆくのです。

『前方後円墳のかたちと意味について』

前方後円墳は3-7世紀にわたって日本各地に建設され、規模の大小はあるものの、ほとんど同じ形を有しており、かつ中国をはじめとする外国にはその形態が普及した痕跡はどこにもない。つまりは、前方後円墳の形態は、日本固有の創造物であると考えられる。それも文字のない時代において、しっかりとした伝達力を発揮したミリオンセラー的トレンドであった。

『国民の芸術』の著者は、この円丘を“天”とし、方形を“地”と見て、天地の調和した形を表現している説を有力視しているが、私には今一つ説得力を欠いた。エジプトのピラミッドが、太陽神と復活の信仰に直接的に関係しているように、その全盛を風靡した古墳形状が、より濃厚に信仰にかかわっているように思えたからである。

信仰の他に、もうひとつ重要なのは、当時の技術的側面である。文字の無い時代に誰がどのように、その形を伝えたかという問題である。

その役割を果たしたのは土師部(ハジツクリベ)と呼ばれる焼き物職人の集団であったことが想像される。

前方後円墳の造築にあたり、その土止め用に周囲に円筒埴輪が巡らされたことからもわかるように、建造の指揮にあたっていたのは、大工でも鍛冶屋でもなく、土器(焼き物)職人たちであったのだ。文字のない時代にあって、もっともデザイン力を発揮したと思われるのは間違い無くこの土師部たちであり、それゆえ地位的にもかなり高いものであったことが想像される。彼らによって日本の隅々までこの形が伝えられた事は、私のなかでは疑いようもない事実のように思われて来た時、そうその時である。私の頭のなかで、巨大な柱がポンと立ち上がった。

それは天を貫くようにそそり立つ巨大な男根である。先端が球状に膨れ上がる柱で、根元は巨木のように末広がりになっている。あらゆる土器が回転体を基本に成形されているように、前方後円墳の形状の原型は、下のような球と円錐が合体したような回転体に違いない!私はそう思ったのです。-つづく-

 

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