ここのところ、自分自身が何をしたいのか、どの道をいけばいいのか、日々悩んで悶々としていた。 ありもしない頂を求めて、理想の急勾配を登りたい願望に囚われていたのかも。 エリートアスリートの充実したエクササイズをイメージばかりして、 職人の地道な修練のあり方を忘れてる。誰でもそんな時期はあるようだ。 一般には願望とその達成により生きる快感を得るもの。 だが精力的に仕事をする人によく見られる傾向だが、 願望ばかり大きくて、達成がないとき不快感が積もって爆発しそうになる。 しかし、一方で願望も達成も求めず、無心に生きる生き方もある。 私も、道を黙々と行く修行僧のように、無心に生きなければいけないなぁと、思い至った。 それは何度となく、思い立ったことだったのにすっかり忘れていた。 忘れることが必要なのだろう。思い出すことと同じか、それ以上に。 だから我々はひとたび忘れ去るために、死ぬようになっている。 こう言うのは、もちろん輪廻転生を前提としているのだが・・・ 死を通して前世を一度忘れるのは、再び深く経験するためだとも思う。 たとえば、自分の好みみたいなものも、前世の経験みたいなものが影響していると感じる。
みたいなことだ。 もちろん、幼少の記憶が、そういう好みを左右する場合もあろうが、 それだけでは説明できないものが確かにある。 それを説明するものは、今の生の以前に存在しただろう経験。 それをにわかに気付くことが、生きる事の意味のようにさえ思えてくる。
ほんとうの自分自身の“うつわ”を知るようなものだと思う。 ふだん自分はお猪口のようなもんだと思っているとしても、 ほんとうは、想像以上にどでかい大鉢なんだと思う。 そういう努力とも言いがたいような、ささいな積み重ねをしてゆくことで、 自分というもののヒストリーを知って、行くべき道を想像していけるのだろう。 そんな思いもあって、今回は自分の好みを検証して自分探しをするうちに 読者の方々の生き方のヒントにでもなれば、ありがたいものだと、 また、こういうふうに陶器を鑑賞する視点もあるのかと、おもしろがってくだされば幸いだと思います。 それでも、うちで売っている品物では、販売促進の一環のように思われるのが悔しいので、 他店で買った 比較的いいものに関して書いてみました。 |
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まずはじめは、三上亮さんの不思議な注器。 私はこの注器が大好き。 前にも同じような形の、少し小さめの注器を買ったことがある。 どうもこの形が私にはかなりお気に入りのようだ。 作者の三上亮さんも、時期をあけた展示会で同じようなこの 形の注器を発表しているからには、この形が気に入っているに違いない。 まず最初に、作者の感性に同調するということが重要だ。 おそらく生き方のリズムみたいな何かがシンクロするのだろう。 数年前から、三上亮さんの作品を追っかけている自分がいるのだ。 その師である浅野陽の秘蔵っ子で、師の素朴な抽象と、安定感のある形を どこかで継承している。浅野陽の作品は手にしたことがないが、著作や写真で知る限り、ご存命であれば大ファンだったろう。人は自分探しをする過程で、ほんとうの師と呼べるような人に出会うことは幸福なことだ。師が鏡となるからだ。 私にもそんな師と呼べる鏡がほしいものだと思う。 |
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で、どんなところが好きかって、改めて考えてみると、いくつか浮かんでくる。まず、この武骨な形が好きなんだろう。まぁそれ以前に注器ってもんが好きなんだ。もっと言えば“注ぐ”行為が好きなのかも。もちろんこれ男のセックスとも関係がありそうなはなしだ。でもまぁ一応セックスの話はさておき、まずはこれを手に取ってみよう。 で、持とうとしたら、この注器をガツンと鷲づかみしなければならない。しかも、厚めのタタラ作りだから、ズシンと重さを感じる。そういう行為を強いる形になっているのだ。使いやすさはスレスレで保ちつつも、使うものに媚びない野武士のような風格がある。 |
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この“うつわ”は男の中の男なのだ。そもそも徳利や急須みたいな注器っていうものは、概して男なのです。(皿とか鉢はだいたい女です。女の“うつわ”たちは、裏(内)と表(外)があるんです。男の“うつわ”は、ふつう表しか見せようとしない。裏側は秘めた感じにするわけです。) だから、これなんかもフタの部分も全体的に小さいわけです。それで内側を秘めた感じにする これ!男の“うつわ”の証明。 注ぎ口の大きさは個性が出るところだ。この注器の注ぎ口の小ささは実に好感のもてる気がする。なんだか私のコンプレックスかもしれんが、図体がでかい割りに、小さめの注ぎ口はアンバランスのようだが、なぜかグッとくる。酒(焼酎)用だから、チロチロと情緒深く注がれるのがいいのだ。お茶なんかは、もっとゆったりと出た方がいいから、大きめでいいわけですが、この注器の場合は、ガツンと掴んで、チロチロと注ぐのがいいのです。武骨な武士がもつ繊細な心みたいのを感じちゃうのです。 |
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また紋様は、プリミティブな感じが好きなんです。必要最低限の線や陰影で、それとかろうじて分かるのがイイのです。しかしプリミティブだからって、稚拙な煩雑さは駄目。洗練された技による抑制された感情の発露!みたいのが琴線を震わせます。逆に妙に絢爛豪華なものや、えらく精密な赤絵みたいのものは響きにくいです。作りや筆に勢いを感じないものは駄目なのです。作りや筆に勢いがあるということは、何万回も同じ作業をする中で、培われるもので、チマチマ作られた“うつわ”にはない、無意識の底から湧き上がってくるような何かを見るような気がするのです。例えば演劇なら、演出家の企みがすぐ見えてしまう劇は駄目でしょう。役者たちの生気が塊になって、湧き上がるような劇が好き。そこに演出家の言いたいことなどを、ぶち抜いてしまう力を感じる劇が好きなのです。 |
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紋様を具体的に見てみよう。 木の下に犬がいるだけのことだが、木の曲がり方とか、犬の目とか不思議と心地よいのだ。この注器、直方体だから、平面で見せる部分が大きくて、太古の壁画のようなイメージを醸し出している。壁画っていうのは、たいてい真っ暗な洞窟の中にあるものですが、その洞窟っていうのは、人間の心理で言えば、無意識の淵に相当します。記憶の奥底からあぶりだされた感じがするんです。 はじめて絵筆と画用紙を前にした子供が、大好きな犬と、庭の大きな木を画いたよう。しかもネライみたいなものは、皆無とばかり絶妙に隠されているのです。 |
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さて、私は作品を見るとき、知的階層を意識するときがあります。 無意識と意識は、常に相互に影響しているので、意識(知的)のレベルに変化をもたせて鑑賞することは、無意識の世界を立体的に感じ取ることに役立つと思うのです。 左の写真は、この注器の裏側。先の紋様側の背後ということになる。“男のうつわ”には内側は秘めて、外側を見せる傾向があると言ったが、“男のうつわ”とはいえ、その背後はさりげなく見せる傾向にあるのだ。茶碗の高台裏などもその類だと言えるが、それは『夫の背中』『父の背中』に似た印象と言えないだろうか。 この背後の紋様は、枯れ木のようである。枯葉も枝ぶりも、表の紋様がしなやかなのに比して、実に角々しい。私的にはこれを諸行無常の図案化と見るわけです。表は先ほども言ったように、春です。花が咲き乱れ、犬も喜ぶ。その背後の面には、犬も去り、枝が細って妖怪のような姿の枯れ木が、今まさに最後の葉を落とそうとしています。 少年老いやすく学成りがたし 一瞬の光陰軽んずべからず 未だ覚めず池塘春草の夢 階前の梧葉已に秋声 ってな感じなわけです。 そういう知的階層で見て、また直感で感じ、さらにまた別の知的階層で感じて、またまた直感的に向き合ってみる。そういうアングルやレイヤーの異なる鑑賞によって、自分が何に興味があり、何に囚われているかも分かって来るような気がしてます。また、そういう多角的で階層的な鑑賞を可能にするような作品が“名品”であるとも言えるでしょう。 例えば、先にこの“うつわ”は、太古の壁画を髣髴させると言いましたが、もう少し捻った考察をしてみますと、キトラ古墳のような立方体の祠を外側から見たところって形にも見えてきます。つまり、もしかしたら、この注器の内側には、白虎とか、青龍、玄武、朱雀、それに天体図までも画かれているのかもしれない なんて空想の世界に遊ぶこともできるのです。キトラの壁画は、いわば『永遠』とか『宇宙全体』を図案化したものだと考えられますが、その壁画の背面に、この注器の紋様のように、『無常』と『部分』が図案化されていたとしたら、それこそダビンチコードどころでないでしょう。こんな風に知的妄想はどんどん膨らむわけです。 で、再び直感的にそのものに向かい合うのです。すると この“うつわ”が、ほんとうに宇宙全体を具現した曼陀羅のような気がして身の毛がよだつわけです。 私がいっぱしの数寄者だったらこの武骨な注器にぜひこの銘を送りたい。 “春秋” もちろんこれ孔子の春秋にかけているのですが、私はこれを見たことも、読んだこともありません。が、ダビンチコードよろしく 孔子の暗号が隠されている書らしいですよ これほんと!見方によっては分厚い本にも見えてくるでしょ |
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別のうつわも見てみましょう。 これは京都の陶芸家で、猪飼祐一さんという方の食器です。 ちょっと変わった高台の向付けって感じでしょう。 この“うつわ”が好きなのにも、なんらか理由がありそうです。 っていうのは、この“うつわ”2、3年我が家にありますが、 ほとんど料理が盛られたことがありません。→★我が家のうつわ画像 なんだか、神器のような気品があるからでしょう。 それで今では、お守り札の前に聖水を入れるうつわとして使ってます。 このうつわの魅力のひとつは、人間国宝清水卯一氏が蓬莱と呼んだ志野に似た白釉の釉調にある。この独特の白釉の仕事は、卯一氏により完成し、息子清水保孝氏に受け継がれ、さらにその弟子である猪飼さんに受け継がれた秘伝の技だと私は思っている。まったりとした釉が、線上に掛分けされ、胎土との落差をくっきりと見せ、釉の厚さをさらに強調するのだ。この秘伝的な技は、私的にはかなり好き。なぜなら、育ちの良いお嬢様のような希少な血筋に弱いから。それは偏見だって言われようとしかたがない。好きなんだから。 で、お嬢様だと言ったからって、このうつわが女かと言えば、女でも男でもなさそう。いわば両性具有なうつわと言える。なぜなら、このうつわは、上部と下部とが、その性質を異にしているからだ。上半分は、大きく内を開いて見せて母性の包容力を見せながらも、下半分は、逆に内を秘めた、凛々しい立ち姿の男性的な雰囲気を醸しだしている。外側の秘伝の技は、いわば男的な技でもあり、内側の、およそ一般的な技法である緑の灰釉は、女性的な技。この二面性が、ほかのまともなセックスのうつわとは別格なもの、いわば神器の気品を持つうつわにしている。 |
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また、他にもこのうつわを特別なものにしている風情がある。 一般に長石を多く含んだ志野釉と、緑色になる灰釉とは、焼成温度が微妙に違い、その焼成や釉薬の調合には繊細な注意が払われる。 が、このうつわは、外側の秘伝の志野釉が、灰釉に流れ落ちてる部分がある。(写真の右端) また内の灰釉も微妙に乳濁していて溶け切っていないように見える。つまり、このうつわはもしかしたら、失敗作に近い。もう少し志野釉が流れていたら、まさに失敗作だろう。しかし、流れ始めたところで微妙に止まっている。私的にはこのギリギリ感がたまらないのです。世の中には、腐りかけが一番旨いってものがありますが、そんな風情を感じちゃうわけです。 しかも、先に理屈付けた両性具有の“うつわ”として見た場合、この釉同士の混ざり合いは、両性の霊的融合の軌跡にさえ見えてくるのです。 |
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これは、先の二つのものよりずっと大きな皿です。径50cmほどはあります。 伊藤麻紗人さんの傑作だと思います。 この手の大きな皿は、まずしっかり大きいことに価値があります。 成形も釉掛け絵付けも難しいからです。 そこらのえせ陶芸家にはできない技になります。 しかも伊藤麻紗人さんぐらいの陶芸家ともなればかなり高価です。 けれど、その良さは、価格をはるかに超えてすばらしいと思っています。 大きさ、重さ、図案、釉調 すべてがバランスよく調和しているからです。 何でも物事は、マクロに見たり、ミクロに見たりして、そこにある気質の求心性や遠心性を見い出すと、その物事の心みたいなものが感じとれるような気がします。 それは先に言った知的階層を変えて眺めてみると同じような意味があるでしょう。 このうつわは、アップで見ると鉄絵の銀色が、光のあたり方で大胆に変化するせいか、動的な図案がさらに動き出すような錯覚に陥る。アップで見るとその動的ななものは静的に、静的なものは動的に見えることがよくあることだが、このうつわに関しては逆で、より動的になっていく。筆の走りもミクロに見れば見るほど走ってるように見える。あっぱれな感じだ。ああ、あっぱれ! しかも、裏にしてみると、見事に端正な配慮があり、美しい。 表があって、しっかり裏があるのを見れば、このうつわは立派に女のうつわに分類される。女性らしいと殊更思うのは、古典的な柳燕図の燕がつがいだってこと。これが男のうつわなら、壷のような形に燕は一羽に描かれるでしょう。男は唯我独尊なもの。女はとりあえず平和な共存を求めるのです。 この伊藤麻紗人さんのうつわは、女は女でも乙女の純情と花魁の気品みたなものをダブルに感じます。つまり、かなり奥深い女です。奥深いと、たいがいややこしいのですが、この“うつわ”はとてもシンプルです。つまりかなりいい女なのです。 また、和歌が本歌どりしながら、歌の世界の奥行きを深めるように、古典的図案の遍歴は、ある意味、人間の深層心理が共有するストーリーだ。少なくとも東洋人の心の中には、この柳と燕とが生きて成長を続けている。ゆえにそれは偏所的な一瞬でありながら傑作は宇宙全体の奥行きを見せるのだ。 |
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この図案のリズム感は、見たとおり、柳の葉と燕の羽の形状の類似に支えられているのだが、実はその二種類の生き物は、逆行しているのが面白い。柳は風の吹く方向になびいているのに、燕は風に向かって飛翔しているのだ。ベクトルは逆なのに、溶け合っているのだ。しかも、この力学的なリズム感は、ろくろ成形のリズム感に類似している。皿作りのろくろは、“押えて広げる”力学リズムだからだ。つまり抑制によって拡大を生み出すのだ。その力学リズムに則ったろくろ目は、鉄絵の背後で、かすかに波紋を残す。風のベクトルとは、また違う同心円の磁場、あるいは曼陀羅のよう・・・ そこまでいって、あぁ そうか!って思い至った。 これは、この黒い皿は月夜の池だ! 池の水面に映る、月光に照らされた柳と燕。 それに風。風は柳を揺らし、燕を生き生きとさせ、水面を撫ぜて波紋を作ったのだ。 そういう世界だ。ああやっぱりこの世界が好き! このうつわが好き! |
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それで、 裏を返せば、掛分けた鉄系の黄釉が重なるところに文字が浮かび上がっている。“吉祥如意” その流暢な文字は、一文字づつ四方に書き分けられている。幸運を思いのままに!みたいな傲慢な意味ではなく、“無心であれば、幸運は自ずからやってくる”みたいな意味だと解したい。柳と燕がそう歌い上げているように思えるから。 ああ、やっぱりこのうつわが好き。 そして、やっぱり良寛も好き 好きな物が、そういう風に繋がっていく事は実にまた心地いい。 そういう繋がりで、自分という“うつわ”がだんだん見えてくるのだ。
茶をいれたうつわ、あるいはうつわに入った茶が、私自身だとしたら、 普段身体とともに意識しているのは茶碗の方だが、深遠な世界と繋がっているのは、むしろうつわの方ではない。ただの熱い茶の方なのだ。 ところが、この熱い茶 釜でも茶碗でも、うつわたるべきものに入っていないとしたら、ひどく掴みどころのないものになってしまう。 つまり人間は実存的存在だけでなく、強烈に霊的存在であるのだ。 しかし ある意味、つかみどころない深淵に無闇に関わってはいけない。 危険な領域だからだ。 熱い茶をいきなり触ったり、口にしてはいけないのだ。 そこで、うつわとしての実存的存在は重要な意味を持つ。 実際に感知されるのは、いつも暗号としてのモノ(=うつわ)の方だ。 霊感の特に強い人は、別として、大半の人はモノ(=うつわ)によって、 向こう側を知るのだ。それでいいのだ。 いきなり霊を感知するより、ずっと常道なのだと私は思うし、 それが“粋”ってものだ。それが美的な生き方なのだと思うのです。 人は好きなモノがあって、はじめてそのモノが好きなことに気づく。 それで初めて、モノ(=うつわ)の上にのってる(あるいは背後に張り付いてる)自分の無意識の世界をすこしづつ知っていくのだ。 したがって好きなもんは好き それでいいのだ。 しかし、それに囚われたり、執着したらいけない。 左の良寛の詩(詩吟)のように、“意に可”なモノに気づくのは、 道端で素敵な地蔵様を見つけるようなもの。 手をあわせて一休みした後は、 ただ感謝して通り過ぎればいいのだろう。 大切なことは、忘れても、忘れても 何度も何度もそこを通り過ぎる デジャヴュとともに、再び知るために・・・ |
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巌水(別名でんちゃん) 鏡に映った自分を撮影する姿 銘 “あゝ春秋” |