ときどき思うことがあるんです。心はどこにあるのかってこと。 ネコならヒゲのあたりにありそうだし、 茶碗なら高台のあたりか? じゃクラゲはって考えると、頭っぽいところでなく、 足みたいなところに、ありそうな気がしてくる。 人の場合、 心臓と心が同一視されるせいか、多くのひとは胸のあたりにあるって 思ってるよう。あるいは、神経中枢である脳こそ、心があるんだと思う人も いる。そのどちらも私は受け入れがたいんです。自我とか意識というものは たしかにその辺りにありそうだが、無意識や超意識、それに霊魂みたいなものは そこにないでしょ。自我とか意識が自分自身だと思ってる人から すれば、心臓や脳に心があると思って当然なのだが、無意識や超意識の方が、 もともとの姿なのだと私は思うのです。 生まれたばかりの赤ちゃんに意識はないでしょ。成長していくあいだに自我や意識と呼ばれるものが肥大していくんだ。肥大した自我を自分自身だと多くの人は思っている。 瀕死で幽体離脱した魂もまた、生きてる時と同じような意識をもってるそうだ。 最近はやりのスピリチュアル系の著作によれば、ふつうは、しだいにその意識は失われていく。失われて、それでおしまいなのかと言えば、そうでもない。無意識や超意識に似た魂になってゆく。私見では、それが成仏ってことなんだと思っている。 成仏しない魂は、怨霊みたいな下等霊になってこの世にとどまる。それは良くない。非常に良くない。だから生前から、ほんとうの自分を見つめてなければいけない。 それがとても大事なことだと思うんです。 では本当の自分を見つめるには、どうすればいいのか?どこを見つめればいいのか? 私は心=本当の自分は、身体のまわりにあるって思っている。 オーラとかチャクラとか呼ばれるものにこそ、意識を超えた自分自身があると思う。 それは、脳を通じて意識化されようと、脳が従であって主でない。からだのまわりに 流れてる霊魂に似た気にこそ、宇宙とつながった自分自身の主体があると思う。 その主体に一番接しているいるのは、皮膚。皮膚感覚が一番本来的な自分自身を 感じられる現象でありツールなのではないでしょうか。 たとえば、聴覚や視覚から享受する感動も、 “鳥肌がたつ”ような感覚がともないませんか? あるいは、不吉な予感や、懐かしさみたいなものを感じるとき、 皮膚感覚によってそれを受け入れませんか? 生ぬるい空気に不吉を感じたり、握手したその感触に 愛を感じたりする時はありませんか? もちろん脳はその感覚を受け入れている。しかし瞬時に意味づけはできない。 ただプラスかマイナスかを感じ取るくらい。プラスなら積極的に受け入れようとし、 マイナスなら、遠ざかろうとする。が、それも普段使っている脳とは違う。 違う脳の部位が反応してる。 つまり、無意識や超意識の領域は脳が主体でなくて、皮膚感覚が主体である。そう感じませんか。幼児がお母さんとの皮膚の接触で、無言のうちに多くのものごとを学ぶように、人間は死ぬまで、皮膚感覚それ自体で、非常に多くのものを享受してる。 視覚や聴覚のように、イメージが具体的にならない分だけ軽視されがちですが、第六感(シックスセンス)と直接的につながっているのは、実は皮膚なのだと私は思うのです。 そんなふうに最初に思ったのは、ある瞑想法を実践するようになってからです。 瞑想をすると、雑多な思考がぜんぶ無くなって、頭が空っぽになる。 でも皮膚感覚だけは、呼吸のリズムにあわせて、さざ波のようにうごめいているのが わかります。意識は無い。あるいはその皮膚感覚以外のものは何もない。そんな状態 になります。そんな経験から、私は皮膚のまわりに、神秘的な何かが存在するように 確信していったのです。 そして、この皮膚感覚を経由した第六感こそ 自分自身のほんとうの心なのだと感じられるのです。 そこから生まれ出る世界はときに、視覚的幻惑、聴覚的な幻惑をともなうけれど、 それは皮膚から享受したものを、脳に刻み込むためのものであり、 睡眠中の幻想的な夢なんかはその類だと思うんですが、その散漫な イメージを束ねるのはやっぱり、皮膚感覚なのではないかと思うのです。 脳に刻まれた記憶と、今を結合するもの。 一見でたらめな物語に、方向性をあたえるもの。 それが皮膚、皮膚のまわりに宿るもの だと思うのです。 さて、ここからはうつわの話になります。 陶器の本性はどこのあるのでしょうか?って問えば? 陶器好きの貴殿なら、きっと“土”と答えるでしょう。 それには、私は異議があります。陶器の本性はほんとに“土”でしょうか。 陶器は、人が作り出し、人が育てます。人がなければ、陶器は陶器たりえない。 人が使ってはじめて、陶器は息をはじめます。土は最初から地面にあったのです。 それを掘って、練り合わせる人がいなければ、土は陶器にならなかった。 で、あるから、陶器の本性は“土”でなく“人”だと私は思う。 そして、人の本性が、皮膚に宿る霊的な何かであるからには、陶器は人に触れて はじめて、本性を得るのだ。そして陶器もまた、陶の肌で人と会話する。 つまり、陶器が本性を得るまさにその時に、人の本性は陶器の本性と出会う。 懐かしい自分自身に遭遇するのだ。 そんな風に、プリミティブな手作りのものが、自分自身を映すのを知ってる人は少ない。 視覚的感性に優れている人も、聴覚的感性に優れている人も、たしかにたくさんいる。 しかし、どんなグラフィックデザイナーであろうと、どんなミュージシャンであろうと、 人の心を打つものは、ハートがある。じゃハートって? ハートっていうのは響きでしょ。共に響きあうものでしょう。 鼓膜が響いて音楽となり、光という波動が眼球の奥の網膜に届いて、ビジュアルとなる。 でも、音や光でない響きもたしかにあって、それは多くの部分 肌で感じ取っている。 音は耳で聴くし、光は目で見る。おなじように“気”という響きは肌で感じている。 時に柔らかく、時に激しく、音や光を通して、 鳥肌が立つような感動に変えるものそれがアートか。 アーチストは、音や光を媒体に、人の心を響かす“気”を送っていると「言っていい。 そうだとしたら、陶器がもつチカラは、アートとは少し違う。 陶器が持つチカラは、素直に自分自身に出会うことなんだと思う。 手を伸ばせば、そこにある自分自身に。 ただチカラをふっと抜くだけで、 頭で考えることを止めるだけで、人は自分自身に会える。 お気に入りの陶器を手にするだけで 脳を使ってはいけません。特に左側の脳はいけません。 ただただ 自分自身を肌で感じ、その感覚自体に浸りましょう。 ぎゃーてい ぎゃーてい はらそー ぎゃーてい・・・ PS. 2005年3月25日 うつわのみせDEN 田口巌 |