うつわの神秘性に関して

 いわゆる陶器にこだわることなく、どんどんうつわとしてのイメージを膨らませていくと、“人間のつくりだしたもの”という意味からも突き抜けて、“モノ”ということになるのではないだろうか。例えば密教では、世界を三世間に分けて考え、仏世間、衆生世間、器世間という。衆生世間が人間をはじめ生物すべてを指すのに対して、器世間というように、器がいわゆる非情のもの=物質=無生物の代名詞として使われている。

器世間も含めて山川草木-鉱物にいたるまで、すべての無生物も心をもって生きていると考えてているからこそ、“器”という言葉を使ったと感じます。三種の神器などというように、器にやどる精神性、神秘性が目に見えるほどに強烈だからではないでしょうか。いわゆるモノのもつ精神性(心)を、古来から代表してきたのが、まさしく“うつわ”なのです。

また、言霊が日本では古来から信仰されてきましたが、密教の“マントラ”=“真言”ということばと、言霊はとても似ていることばではないかと思います。“マントラ”は、語源的には“真理の言葉を乗せたうつわ”ということになるのです。

密教の話しを例にあげましたが、さまざまな文化の中で、器は物質の精神性を象徴するばかりでなく“神秘的なエネルギーを運ぶもの”をも象徴してきたようです。そして縄文時代、弥生時代などというように、その文化自体を代表するものだったのです。そういうものとして選ばれてきたのには、やはり器の製造過程とその用途に負うものが大きいのでしょう。

作り手により丹念に練りこまれた土を原料として、作り手が心を込めて成形、施釉し、高温の火で長時間焼く。

心とエネルギーを詰め込んだような焼き物が、こうしてできあがる。それから今度は使い手がそのうつわを手にし、口にし、見つめ、飾ったりしてゆく間に、そのうつわはまた魂を入れられていく。何代にもわたって愛用されたうつわは、焼き上がったばかりのうつわとは明らかに何かが違う。そこにある物質性以外のものは、心、気、波動、魂などと呼ばれる。よい焼き物を見て、それを見ない人は、ほんとうにそれを見ているとは言えないではないでしょうか。

奇しくも“器”は“気”と同じく撥音しますが、私は気の集まるところを器と考えています。

そうすると私達のからだも“器”。家も“器”。地球も“器”。目の前にあるお気に入りのうつわから地球や宇宙にいたる気の流れは、ひとしずくの水がやがて大河となり、大海に流れ着くように、巨大なうねりを感じます。

モノにいのちがあることを、とてもわかりやすく、身近に感じさせてくれる“うつわ”

 

 無限に広がる神秘的な世界へのドア、それが“うつわ”なのではないでしょうか。

☆ちなみに私は、真言宗ではありません、熱心な仏教徒でもありません。クリスマスはお祝しますが、仏陀の生誕祝いはしていません。ただ、いろいろな世界観をもつ人がいて、それを認めあうような世界になってほしいと願うものです。

2001.1.26 田口 巌

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