額賀章夫さん 市野雅利さん 山本一仁さん の三人の陶芸家に出展していただきます。 特に窯場や産地の枠を超えて活躍する、さらには時代を超えて活躍するかもしれない陶芸家ということで、選ばさせていただきました。 笠間の額賀章夫さんは、愛好家のなかでも評価が格段で、いつも大忙しの人気者。釉などの基本は民芸調なのに、とてもポップな感じが、額賀さんのうつわの人気の秘訣でしょう。また価格を抑えるための工夫などもしっかり考える、そんな作陶の姿勢に、人柄がうかがえます。たしかに益子、笠間にはそういった民芸運動の精神を引き継いでいる陶芸家は多いのですが、とりわけ額賀さんは光っているように思われます。 かつて、濱田庄司が益子で民芸運動を実践すると、彼を慕って多くの陶芸家が、益子に集まるようになっていった。そういうことで、もともと瀬戸など西日本の産地よりもずっと自由の気風が益子にはあったように思う。 が、それでいっそう発展した益子は、しだいに窯元と民芸販売店が強くなって影響力を持ち出す。と、さらに若い世代は、そんな影響力を少しだけ避けて、山向こうの笠間に集まったのではないだろうか。だからか、今も笠間の作家さんの方が、いくぶんか自由に見える。 そんな流れの何世代かあとに、額賀章夫さんもいる。時代の流れや伝統を充分意識しないと、それを超えるようなものは生まれにくいような気がする。額賀さんが、民芸調のうつわを作りながら、民芸と言う言葉の意味をやすやすと超えてしまうように見えるのは、やっぱり流れと今を咀嚼しているからなのだと思う。 つまりそれは、『伝統を踏まえ、なお自由でいる』ようなことだろうか。濱田庄司の“気風”が、時を越えて、山を越えて吹きおろし、額賀さんの工房のあたりで、ぐりぐり渦巻いてるような気がするのです。 |
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額賀さんは、笠間といっても、街からはほど離れた山の上にぽつんと建った工房で作陶している。数年前はじめて伺ったときは、移転したばかりのせわしない時期だったせいか、額賀さんのロクロをひく姿は見れなかったが、かわりに額賀さん自身が子どものオシメを変えるのはしっかりと見せてもらった。なかなかの手際だったことを記憶している(笑)。 民芸と言うとなんかしら、時代遅れに感じがちで、都内の有名ギャラリーでは、よほど気品がある作品でも駄目だったりする。が、額賀さんの作品なんかは、今流行りのフードデザイナーなんかに、うまく使われたら大ヒットしそう(現状でもかなりヒットなんですが)。私などは、『民芸ヌーベルバーグ』なんて呼びたい気がするくらい。これ以上人気になったら、額賀さんの身体が心配なので、あまり無理押しはしたくないですが、まずは使ってみてください。私の言う『民芸ヌーベルバーグ』がぜんぜんウソじゃないのが、おわかりいただけると思います。 あるいは、NO BORDER 世界の味 民芸風味!って感じ。 |
市野雅利さんは、丹波の出身ですが、いわゆる丹波焼きって感じがしないのは、丹波を離れて長く修行してきたからなのか、窯場にあって、窯場の雰囲気よりも強く作家性を意識している方だと思う。自分だけのもの生み出そうという意欲を感じる。 その到達点のひとつが、この刷毛目だと思う。 4年ぐらい前か、 都内の貸しギャラリーで市野雅利さんの、2尺もあるような大きな粉引の球体の作品に出会ったときは、正直引いたのを覚えている。 芸術志向のオブジェ作家と、うつわ志向の作家とに、いかんともしがたい隔たりを感じていたからだ。その両極の感性がうまく溶け合って、結果絶妙なうつわを作り出す作家は、極少数。肝を抜くようなオブジェを作る作家が、実に陳腐なうつわを作っていたり、うつわと言い難い、うつわもどきを作っていることの方がはるかに多い。 芸術は爆発だ!と岡本太郎は言っていたが、そういう意味ではうつわは決して爆発ではないからだ。太陽と月ほどのギャップがある。月がうつわなら、芸術は太陽か。月も太陽の光を浴びて輝くからには、太陽の爆発のエネルギーをどこかに秘めているのだが、その姿はいわば明鏡止水。 うつわ作りには、現代芸術の奇抜さとは、相容れないものがある。 しかしその隔たりをじょうずに溶かし込むような作家もたしかにいる。 そんな陶芸家をNO BOREDRな作家とも言えようが、市野雅利さんもそんなたぐいまれな陶芸家になりつつあると思う。 この独特の刷毛目も、多数のボーダーラインの集まりではある。 だが、全体としてNO BOREDRなうつわになっているというパラドックスに、陶芸の真理を見るような気がする。 |
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つまり、市野雅利さんのように、若い頃から多くの境界線を肌身に感じ、我がものにしてきたことで、逆に境界線のない世界へと近づく。そういう昇華の仕方がひとつの真理なのだと思う。 一方に境界線の内側で、突き詰めて突き詰めて突破口を見出すものもいるのだが・・・ 芸術が爆発なら、うつわは、silence on the border of burst(爆発寸前の静寂)の趣を持たなければいけない。 あるいは、小さなうつわにも、秘められた大きなエネルギーを感じていたい。 そんな欲求をにわかに満足させるうつわになっていると思う。 |
山本一仁さんは、うつわの形に驚かされる。 ふつうなのに独特なのだ。 逆に一見、独特で奇抜そうに見えるものが、使いやすくて尋常なのだ。 そのあたりにとてもNO BORDERを感じるわけです。 その独特の形を支えているのは、土を大胆に削り落とす技法に現れてくるように思われる。 その制作過程は彫刻などに似て、塊の中に潜む実体を見つけ出す感性に支えられている。 成形以前のイメージよりも、土と手ありきの陶芸家が多いが、削りの仕事は、ロクロよりも、いっそう右脳フル活動の創作になってくる。そこには手彫りの木製作品に共通する感性とラインが発見できるが、土独特の柔らかなラインも発見できて多様だ。それを眺めてると、一般的な陶芸家と違う右脳の使い方をしているように思えてくる。 削ぎを得意とする作家も少なからずいるが、たいてい重くて使いにくいうつわが多いような気がする。また、陶芸と言えばロクロという固定観念がどこかにあって、土を削ぎ落として形をつくるところを、潔しとしない傾向があるのかもしれない。 本来、茶陶では、底の削りこそが作陶の命であるのに、そこに目をむけない輩が多いからなのか。あるいは、多くの土を削ぎ落としたら、再生するのが難儀であるためか。削ぎの量を最小限にする作り手が多いようだ。 しかし、山本一仁さんは、こまごましたことは気にもせず、大胆に削ぎ落とす。おそらくは、これは性分なのだろう。育ちの良さがなせる技なのかもしれない。 恣意的な削ぎに見えるのに、なんで、こんなに同じような削ぎで、ひとつひとつに勢いを感じるのだろう。不思議だ。おそらくは、型や道具などに、独特の工夫があるに違いない。わりに安い価格で、多くの作品を生み出すのは、たしかにバイタリティーもあろうが、知性的な探究心のなせる技なんだと私は思っている。 |
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価格が手頃で、ものが独創的で使いやすいから、山本一仁さんのうつわは、最近はいろんなところで目にする。 今は織部と粉引が中心だが、独創的な灰釉の仕事なんかも、期待したくなる。 粉引や織部の釉調もまろやかな風合いがあって大好きだから、灰釉の織り成す多様なコントラストにも、山本さんの削ぎが光るように思うのです。そんな期待をいろいろしたくなる陶芸家です。 今回、無理やりにもNO BORDERと題しましたが、カップヌードルのCMとは、なんの関係もありません。 ただあの花園に朽ちた戦車が埋もれているCMは大好きです。 あのミスチルの歌も好きです。 歌詞の『傷つけ合うためじゃなく 僕らは出会ったって言い切れるかな? 今分かる答えは一つ ただ一つ Uh I Love You・・・』は、やはりパラドックスに聞こえます。 人は傷つけ合うために出会うのです。 その傷を乗り越えた愛に真価があるのではないでしょうか。 是非この三人の真価をご自分の目でお確かめください。 |