ちーさい春みつけた!陶芸の春もまぢか |
季節が変わろうとするときには、ふと優しいサインをみつけて
小躍りしたい気分になることがある。
秋きぬと目にはさやかに見えねども
風の音にぞおどろかれぬる |
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もちろんこの歌は秋風で、少々悲しげだが、春の到来を告げるサインは、目や耳や肌にもっとはっきりと飛び込んでくるものが多い。
秋は背後から忍び寄り、春は正面からやってくるわけだ。要は、心をからっぽにして、サインが飛び込みやすくすることだろう。
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望月明日太 作
江口智己 作 |
たとえば
木々の芽の膨らみ
鳥の声
せせらぎの音色
雲の形や空の色
そして風の色も?・・・
まだみんな気づいていない、そんなサインを見つけると、人に教えてあげたいような、自分だけの秘密にしときたいような、初恋のような気分
そんな体験は陶芸的環境でもある。みんながまだまだ注目していない陶芸家の、きっと大きく育つだろう、小さいけどしっかりとした芽を見つけると、うれしくなる。こんな言い方をしたら、実績も人気もあるお二人 望月さんにも、江口さんにもたいへん失礼ではあるが、一層
どでかい樹になる期待の現われとして、こんな表現を許していただきたい。
長い長い冬から、いまようやく、陶芸界も春をむかえようとしている気がしてる。そんな気分にさせてくれた二人の若い陶芸家。それが望月明日太さんと江口智己さんだ。
なんか従来の陶芸家とちがう。渋いだけでなく、花があり夢もあるみたいな感じ(ああ陳腐な表現!)。これからの食卓や料理シーンを変えていきそうな雰囲気(ああこれも陳腐))。
触ると、ぬるい春の水
陶芸の春を肌身に感じる
そんなうつわたちなのだ。
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望月明日太 作
望月明日太 作 |
望月さんは、多摩美卒業後、著名な陶芸家に師事したわけでなく、自分自身の研鑽によって、ここまで積み上げてきた方である。
陳腐な言い方をすれば、手垢がついていない新鮮さをとても感じる。陶芸はこうでなければいけないって枷がなく自由奔放。なのにとっても使いやすい。
すでに多くの展覧会を経験してるが、それぞれ展覧会のテーマをよく意識して、柔軟な姿勢で多くのファンを得ていると思う。
こんなに社会性のある陶芸家はめったにいない。大きな声では言えないが、陶芸家のほとんどは現代社会にうまく適合できないでいる。そいう意味でも、望月明日太は、ニュータイプの陶芸家なのだ。バランス感覚に長けた陶芸家と言える。
特に望月さんの作品で注目したいのは、機能美。ボディビルダーのような肉体ではなく、勝つために必然的に生まれたボクサーのような肉体。それも一流のコーチに教えられたのでなく、ストリートファイトで磨かれたみたいな・・・そんなうつわ。でもパンチは出しません。とても包容力のあるうつわで、優しく包み込んでくれます。 |
江口智己 作
江口智己 作 |
一方、江口さんは、窯元での修行時代が長く技術的に多彩。その上で表現にオリジナリティがあるので、作品に深みが感じられる。
古典文様なのに、今とても新しい感じがする絵付けは、陶芸のめぐりめぐる春を感じさせる。
窯元での修行が裏目に出る陶芸家もいるが、江口さんの場合はオモテに出てる。窯元での経験や技法を、隠そうとして無理やり個性的なものを作る人もいるが、作品からしっぽが見えてるみたいなことも多々ある。
そういう無理な姿勢が、江口さんには微塵もない。自然体なのだ。培ってきたものを自然に自己表現にとりいれてる。それな姿勢がやっぱり、ニュータイプの陶芸家だなあ なんて思ってしまうのだ。
こなれた色使いには、安心感がある。多くの色が手持ちにあるものの、好みの釉を研究して、的確に使ってるのだと思います。形作りにも、嫌味のない工夫がある。まさに陶工と陶芸家の間に身を置き、陶に取組む人である。 |
望月明日太 作
江口智己 作 |
時代はデフレである。今、けっこううまい惣菜が、自宅で料理するより安い値段で、お惣菜屋さんで買えたりする。そういう時代だから食のあり方もずいぶんと変化してる。食器もあまり高価なものは、そうそう使えない。でもイイものは使いたい。それほど高くなくて、ずいぶんとイイもの。しかも量産品でない個性的なもの。
そんな時代のニーズに合わせなくては陶芸家は生きていけない?でも彼らは、時代のニーズに無理して合わせようとしてるのじゃない。彼らはいっこうに自然体。わたしなんかより、ずっと
“うつわ”が
でかいような気がする。
時代を追わない。
時代を卑下しない。
その時代こそが、
彼らの舞台なのだから・・・
ああ、陶芸家この劇的なるもの!
次世代を担う
若き陶芸家たちに幸あれ!
いや、幸あろう かならず
うつわのみせDEN
店長代理 田口巌
2004年2月
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