食欲のない夏でも、ちゅるっと冷たいそばを喰らい、熱いそば湯を飲んで締めるのは格別の風物である。その影の立て役者が景色のいい蕎麦猪口であったりするもんである。私的には、そばちょこの粋は、左手の三本指でうつわの腹をもつことにある。いわばうつわをちょいともつ感じである。それは茶碗を両手でもつ美意識の対極にあるように思われる。
そのほかにもいろいろ思いつくこともあるので、まあちょっと時代を少々さかのぼりながら、蕎麦猪口に関してつらつら考えてみようと思う。
現在、蕎麦猪口と言えば、一般的には酒のうつわが蕎麦用に大きくなったものと考えられがちだが、もともと猪口は向付であったようだ。『陶説』の編集長である村山武氏によると『猪口が文献に最初に出てくるのは尾張焼の森田家の記録の中で万治元年(1658)に初出し、宝永7年寅3月22日の項では「膾皿」「膾ちょく」が並んで記載されている。膾など、汁気のある料理を入れる容器であったわけだ。』と書いている。
つまり向付であったのだ。それでは向付はといえば、頻繁に使われるようになったのは古田織部以来であったようで、茶の湯に飲食の楽しみをとりいれた頃である。
本膳と二の膳の向う側に据えることから、こう呼ばれるようになったのは、皆さんも知るところだろう。
さて、それではなんでもともと向付の別称であった猪口がお蕎麦の付け汁をつける器や酒飲みに使われるようになったのだろうか。私が思うにこうである。
もともと茶の湯文化は、京都、特に堺の商人の文化として栄えたものだ。だがそれが江戸の文化の中に入って来た時に、もちろん珍重されはしたものの、どこかで『しゃらくせぃ』って感じがあったと思うのだ。
とくにお膳の遠くのほうにあって、すまし口をしていやがるイノシシ野郎は、江戸の武士、ましてや江戸の庶民には鼻持ちならねぇもんだったに違いない。そこで、コンニャロこっち来いって具合に、ちょいと手に持ったのが蕎麦猪口のはじまり。だと思う。もともと向付は、軽々しく手に持つように作られていない。が、我らが江戸っ子は、とりあえず一番手に持ちやすそうで、しかも“のぞき”こまなければ見えないような深いやつを、手にとり口にしたのである。それが猪口だったということだろう。“手にとりやすく、汁を啜りやすい”このキーポイントによって、向付としての猪口は、転身をとげたのである。いってみれば、いま一般に言われる猪口とは、向付の江戸化あるいは庶民化した形なのである。そして更にそば用あるいは酒用になるには時間はかからなかったと想像される。いまでもよく見られるが、酒場でちっちゃい盃をだされると『おいこら、コップをくれ』っていう酒豪がいるもんだ。それと同じことがよくあったに違いない。もともと向付だから、いわゆる盃よりも猪口は大きかった。だから現代人のコップ酒感覚で、大酒飲みは猪口をよく使ったのだろう。そうこうするうちに猪口もだんだんと人並みに小さくなって、酒場にひろく普及して、おちょこと言えば酒のうつわをさすようになった。一方蕎麦猪口と言えば、その向付と“おちょこ”との中間的役割であり、また見ての通り、中間的大きさになったのだと考えられる。
“手にとって良し”“汁をすすって良し”が猪口(=非向付)の原点であることからすれば、蕎麦猪口の方が、酒器としての猪口よりも本来的と言ってもいいのではなかろうか。
また作り手の立場や使い手の立場から見ても、蕎麦猪口はシンプルで作りやすく、使いやすいものだったと想像される。
一般には、高台が無いか小さいので、ケヅリもわずかで仕上がり、施釉も大量にどぶづけできたはずだ。また、底にも釉が掛かっているので、底の汚れや染みを気にすることなく、酒場や料理屋でも重宝だったとも考えられる。しかしながら、庶民化量産化の過程で一般大衆に歓迎されていったものであるから、“ちょこ”という語感にはいくらか“お安いもの”って感覚がともなってきたのも事実だろう。
さて、量産経済がバブル崩壊とともに顧みられる今、ここで“お安いもの”って見られてきた我らが猪口は、庶民化から再びまた逆方向に向かおうとしているように思う。
猪突猛進などと言われるが、こりゃまぁ意外と柔軟に走りだしたのだ。
そうそう、つまり長い年月で、蕎麦と猪口はセットで言われてきたわけだが、最近ではチョコさんがソバさんからの独立をめざす気風が漂っているということなのだ。まあまあ、チョコのくせに、ちょこざいな野郎だなんて言わないで。要するに、いくぶんお洒落に猪口を使う人が増えてきているということなのだ。
具体的に言えば、向付や湯のみとして使う。あるいはデザートやアイスクリーム、焼酎お湯割り、ウイスキー水割りなどに使ったりする。猪口の大きさも用途に合わせて、ちょっと大きめ、ちょっと小さめとさまざまである。そこでもまた“手にとって良し”“汁をすすって良し”というセールスポイントが生きて重宝されているようだ。
世阿弥は『珍しきは花なり』と言ったが、食卓も花を演出するには、いくぶん異化が必要だ。従来のスタイルから少しだけ外れて“珍しき”を見せるのだ。
それに今うってつけなのが猪口。今まで手に持たなかった小鉢を、猪口にすることで手に持ったとしたら、ちょっとしたことであるが、その所作の違いが、食卓の異化作用に一役買うこととなる。また猪口にすることで、うつわの腹の景色が見やすくなるってことも楽しいが、見えない料理を覗き込む所作に喜びを覚えるってこともある。(猪口のような深い向付をかつて“のぞき”とも呼んだそうである。)茶の湯が美しい動作(点前)を追求してきたように、改めて食の動作に心をむけている自分に気付いたりするのだ。
いつもはグラスで飲むビールを、時に陶で飲むときに『珍しきは花なり』ときっと感じることだろう。ビアカップもいまが花。そして蕎麦猪口もいまが花。そして何度も何度も咲かせるのは、使い手次第。