川口聡一さんは、コツコツとイメージと段取りを積み上げて作品を作りあげる。ほとんど型作りからの作品なので、雌型や雄型の製作など、作品が出来上がるまでに、大変多くの時間が費やされる。 つまり、忍耐強い人でないとできない。そういう工程をあえて選んで作陶しているのだ。また一度完成された作品でも、ほぼ同じ工程を繰り返すわけだから、職人的な向上心と器量がなければできない。 つまり、練り上げられたイメージへ、技と忍耐によって近づけてゆくのだ。 その製作過程において、技術的な思い付きや、気持ちの変化によって常に改良は続けて多少イメージを変えてゆくにしても、大筋では最初のイメージを大事に育ててゆくのだろう。 ゆえに、川口さんの作品は、作品の完成度が非常に高いと思う。また、作品の出来にブレがない。几帳面に確実にデータもとってゆくのだろう。 私がいい加減な性格のせいか、 川口さんのその姿勢にはいつも感服していしまう。 きっちり頭で考えたことを、商品にする過程は、量産品の製造ラインにも似ているが、川口さんの場合、美的感動の発露から出発して、プランからデザイン、製作図や試作品、型作りや土や釉薬の選定から、形成まですべて自分ひとりでやる。 そうなると、もちろん作品は量産など出来ないし、量産品と比べようもない。美術品の領域に入る。 出来上がりを積極的にイメージせずに、手にかたちを作らせるロクロまかせタイプの陶芸家がいるが、そういう陶芸家とは川口さんは一線を隔する。 おそらくは、そういう陶芸家たちと性格や人柄が、ずいぶんと違うのだろう。しかし、だからといって、川口さんがカタブツかと言えば、ぜんぜんそうではなく、いつもにこやかで、優しげな人だ。 ずいぶんと以前、5、6年も前だったと思うが、そのころまだ小学生だった子供を連れて、川口さんの工房にお邪魔したことがある。 そうしたら、その工房にほんとにデタラメにハシャグ犬(パオ)がいて、子供たちは大喜びだった。後で話を聞いたら、パオはあんまりいたずらで作品を壊しちゃったりするものだから、普段は工房にパオを連れて来ないのだそうだ。子供が来ると聞いたので、少し離れた自宅から車に乗せて連れてきてくれたという。 その話を聞いて、ああ とても優しいひとだなぁと思った のですが、飼い犬は飼い主に似るというから、きっと川口さんも、めちゃくちゃにはしゃいだりすることが、あるんだろうなぁ なんて空想したりもした。 とにかく、 川口さんの作品には、川口さんのそんな几帳面できっちりした性格と優しくカワイイ性格が合わさって、全人格的な味が出ている。 それゆえに、惹かれるのだろう。 まあ、 一言では言い尽くせないのですが、あえて言ってしまえば、 かたカワイイって感じだろうか。
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さて、 吉田学さんは成田空港を北にちょっと過ぎた千葉の田園地帯に自宅と工房を構えている。先日、はじめてのお取引ということもあって、彼の工房を訪ねさせてもらった。それで、なんか、とてもいい気分をもらってきた。 彼の作陶の特徴は、なんといっても、そのひも作りと手ロクロにある。 彼にとっては極あたりまえのことなのだろうが、 土や手法によって、手ロクロの大きさを変えるということが、 私にとっては、驚きだった。 手ロクロの大きさを選ぶということは、推進力の問題なのだ。 大きなロクロの推進力は、強いので、電動ロクロに近くなってゆく。 荒い土では、この推進力の強さが、必要になる場合があり、 逆に滑らかな土の場合、弱い推進力でゆったりしたロクロを轢きたい場合がある。故に、ロクロの大きさを変えることになるのだ。 そう言われてみれば、それが当たり前なのだが、この当たり前なことに ふだん気づかない。その手ロクロの推進力の強弱とは、電動ロクロの回転の遅速とは似て非なるものなのだ。つまり電動ロクロは、非常に近代的電気道具であり、量産品を産出するために作り出された工業機械に近いのだ。手ロクロは、障害があれば、弱まるが、電動ロクロは、常に回転速度を保とうとする。 その違いの大きさに、吉田さんの“うつわ”を見ると、改めて気づく。 原始的な作風なら、良いというわけではない。 ただ原始的な力学を思い起こさせる“うつわ”は、 硬くなってる現代人の心をほぐすのは、間違いないと思う。 しかもその“うつわ”は、ごく薄手の厚みで、とても繊細さを感じる。 プリミティヴな繊細さというのは、なかなか出せるものではない。 たいていは、プリミティブだと武骨で、繊細だと冷徹すぎるものだ。 そういう意味で吉田学の仕事はたいへん貴重だと思う。 素朴な繊細さ あるいは 繊細なうちの素朴さに満ちている。 それはきっと彼の生活から自然と生まれてくる味わいなのだ。 この場所の眺めと、豊かな自然が気に入って、この場所に移り住んだと 吉田さんは言う。 それを聞いて、ああ、素朴でシンプルな方なのだろうと思う。 で、そのあと自宅を拝見させてもらって、意表をつかされた。 ビビッドな赤い敷居に、黄色い戸板、 コンクリート風の壁に、黒塗りの柱。 グラデーションのカーペットに、火焔文のノレン ヨーロッパモダンなローテーブルとソファー。 いたる所に彼の現代的な美意識が埋め込まれている。 原始的住居の土壁に象徴される素朴さと、現代建築のコンクリートの打ちっ放しに象徴される繊細なアート性を、ごく自然に埋めているのが、吉田さんの“うつわ”なのだと思う。 おそらく、 それは、ひも作りの後に、手ロクロするという非効率的な作業に、繊細かつ真剣に取り組んで、生み出されるからなのでしょう。 釣り好きの吉田さんならではの、忍耐強さと、強靭な楽観性がなくては、ありえない“うつわ”だ。 また、 どうして陶芸の道に?って質問に、 『釣りが好きだったもんで・・・』と言う。 『釣りが好きだったもんで・・・その釣った魚を、 盛るうつわを作ってみたくなっちゃって・・・』と続けた。 それは、とてもシンプルな流れ。水の低きに行くが如しだ。 陶芸において、すべて独学の彼にとっては、 師匠は、釣った魚というわけか。 で、誰もが最初はひも作りや手ロクロで、はじめるわけだが、そのまま、その作り方が好きで、ひも作りと手ロクロの陶芸家となったのだ。 作品は、立ちモノよりも、平鉢や皿が多い。 平鉢や皿の方が、手ロクロの緩やかなロクロ目が自然に強調されるようだ。 ロクロで土を上にあげていくことは、重力に逆らわないから、比較的に安心して作れるものだが、平鉢や皿のように、口径が大きく、高台が小さいものを作るとき、土は重力に負けてヘタルことがある。 まして、ひも作り、手ロクロで、時間をかけたファジーな成形になるとき、その傾向はもっと強くなるだろう。 だが、吉田さんのうつわは、厚みが極薄なこともあって、その土の粘力と、重力のギリギリのせめぎあいが、うつわに現れていて、ぞくぞくするほどいい。 腐りかけの果実のような、散る直前の芍薬のような微妙さだ。あるいは、釣りのすごく微妙なヒキにも似てるのだろうか。 彼のスポーツマンのようなストレートな人柄と、 微妙で繊細な芸術家の感性が うつわのなかでみごとに溶け合ってるのを感じる。 一言であえて言うなら、 “ゆるシャープ”なうつわ。そんな感じだろうか。
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自宅わきの工房にて いろんな大きさの手ロクロを使いこなす 自宅裏はすぐ田園 窯のプロパンごしに田園を望む 確実に靴にこだわってる 靴のすぐ前に、靴と同じように 整然とぐい呑みが並ぶ 居間にて茶系のグラデーションの カーペットが素敵 東南アジア系の什器が アートな部屋にぴたり 橙色の戸板と黒い梁と コンクリート風の壁 こだわりのコースターとマッチ箱と 自作の湯のみ |
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さて、今回の展示会 手法は、作家それぞれに違えども、 モノ作りの根底にあるものは、作家の人柄だとつくづく思う。 陶は人なり 陶磁器研究家であり陶芸家の小山富士夫氏の口癖だったようだが、 その言葉は、ほんとうにほんとうにほんとうだ と最近になって改めて思う。 2006年11月吉日 うつわのみせDEN 店長代理田口巌 |